[フランス地図参照]
http://www.hir-net.com/link/map/france.html
エデインパラからパリへとぶ。
午後9時でも夏のパリはあかるく、若いヴェトナム人の運転手も気持ちがよがった。
ホテル・メリディアン・モンパルナス [http://ab.ab-road.net/HOTEL/DETAIL/11132.html]で、東京からきたグループと合流する。
グループは十二月クラブの、海外旅行同好会である。
翌日からこのグループとパリおよび南フランスの旅になるのだが、初日の目標を地をペール・ラシェーズ墓地と簡単にきめたものの、ぼくはちょっと後悔した。この旅行、初めからら終りまで、墓地めぐりみたいなものになってしまったのである。(検索するとwikipediaで詳細が出ます。)
パリにいくならペール・ラシェーズとぼくがおもったのは、この墓地に「連盟兵の壁」があるからである。連盟兵、コンフエデレというのはパリ・コミュ一ンのコミュナールで、かれらはこの壁のまえで銃殺されたのだ。それ以来この一帯には左翼の墓や記念碑が多く、こんどいって気がついたのは、ショパンの墓だった。ショパンはリストやベルリオーズとともに、音楽家仲間のサン・シモン派社会主義者だった。
夕食は、土曜のせいもあって商売繁盛の、クーポール。ラ・クーポール (La Coupole)
サルトルたちが出入りしたという伝説がある。TGVのモンパルナス駅に近いので、何年ぶりかでここをえらんだ。
翌日は、ボルドーに-度とまるだけのトゥルーズ行新幹線TGV[TGV - Wikipedia]で約5時間である。フランスの新幹線は、全国にひろがりつつあるが、まだ専用レールがまにあわず、このトゥルーズ行も、トウールまでが専用レールということらしい。日本の新幹線より早いようだが、日本やドイツにくらべて窮屈である。たまたま満席だったためかもしれない。
トウルーズでは、ユーラシア旅行社が手配してくれた現地居住日本人のガイドの世話になる。
フランス人と結婚してここに住んでいるのだから、国籍は日本ではないかもしれない。
こういう人を通じて、現地の事情がわかるのはいいのだが、アルバイトのガイドとしての情報には限界がある。
アルビのロートレック美術館[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
画像と解説、美術館リンク集]で、このガイドに「ロートレックならポスターを見なければ」といわれて、あっとおもったけれども、トウルーズでは昔の高等法院もジャン・カラス処刑場も知らなかった。
トウルーズ[フランス政府観光局公式サイト
Toulouse, トゥールーズ]でのぼくの目的は、その処刑場と南運河であって、ふたつともアダム・スミスに関係がある。
まずジャン・カラスは、トウルーズの商人で、カソリックの海のなかでカルヴァン派のプロテスタントだった。 プロテスタント一家のなかで、職業上の理由からカソリックに転じた長男のマルカントワーヌを、父が背教者として殺したとして、教会が告訴した。教会の世論操作が成功して、カラスは1762年に、トゥルーズの聖ジョルジユ広場で、車裂火あぶりの刑に処せられた。
ジュネーヴにいたヴォルテールは家族の訴えによって冤罪を知り、名誉回復運動にとりかかった。 1765年に勅令で無罪が宣告されたあとも、教会や高等法院は態度をかえなかったのだが、アダム・スミスはバックルー侯とともに、その前年にパリからトゥルーズに到着し、十月まで滞在したので、事件の経過にふれることができたはずである。
スミスは1790年に、死の直前に出版された「道徳感情論」の増補改訂版でカラス事件に、世論と良心の対立の例として言及した。
それまでスミスは、世論が内面化されたものが良心であると考え、両者の本質的対立はありえないとしていたのだが、カラスは処刑台上でなお、世論に順応しなかったのである。
スミスがこの問題に気がついたのは、フランス革命の衝撃によるものかもしれない。
スミスとカラス事件は、ぼくの第3回啓蒙思想会議(1973年)での報告テーマであった。
南運河は文化遺産ということだけでなく、日常生活にくみこまれていて、ガイドもよく知っていた。
大西洋と地中海をむすぶルイ14世時代のこの運河について、ぼくはまず「国富論」を訳したときに知り、その後、文化遺産の指定を知った。
並木のなかの運河なら、年賀状の写真につかえるだろうと思っていたのだが、つぎの宿泊地カルカソンヌまで、バスは運河につかずはなれず走った。
トゥルーズからバスで1時間ぐらいのアルビにきた主目的は、12、3世紀の南フランスをおおった、アルビ派あるいはカタール(カタリ)派異端の、拠点のひとつとしての、アルビであった。
カタール派が異端とされる理由はいくつかあるが、神につかえるものは人の支配(ローマ法王とその教会)に服することはできないとか、神は人類にすべてを共有に与えたのであって、私有財産も婚姻も神に反するとかいうような教義をみれば、法王体制とあいいれないことはあきらかである。
そのカタールがアルビ派とよばれたのには、アルビの司教が中心だったとか、南フランスをアルビ人とよぶ慣習があったとかいう理由があげられる。
しかし決定的なのは、ローマ法王がカタール撃滅のアルビジョワ十字軍をおこしたことである。
1209年にはじまる十字軍は、南フランス各地で勝敗をくりかえし、1244年にカタールで最後の拠点であるモンセギュール城の陥落で反乱は終了した。それは法王の支配の確立だけでなく、フランス王ルイ九世のトゥルーズ伯レイモン七世に対する勝利であった。
降伏の条件は、20人が火刑、その他は異端を悔悟すれば許されるということだったから、戦闘による死者は全滅的ではなかったようである。
現在、山麓には水場をふくむキャンプサイトがつくられていて、すこし登ったところに案内所や郵便局をふくむ10数軒の集落がある。
カタールの古城は、程度の差はあってもいくつか保存されていて、ミシュランにも古城めぐりの観光プランがいくつもあげられている。そのなかで、ほぼ完全に保存されて観光施設になったのがカルカソンヌである。NHK 世界遺産の旅
【歴史的城塞都市カルカソンヌ 】 カルカソンヌ城内のホテルとレストランはよかった。文化遺産の指定のためか、日本人のグループが、いれかわりたちかわり、一泊していった。
カルカソンヌに2泊して、グループ旅行の終点であるアヴィニョンにむかう。途中アルルで、ゴッホ
の絵にあるカフェでランチ、
、つ
ついでにはね橋の現場をみる。はね橋では、数分間であるが、フランスの農村の土地をふむことができた。
アヴィニョンにはじめてきたのは40年ちかくまえだったと思う。こんどは7回目だということになる。何がそれほどの魅力をこの都市に与えるのかと考えてみると決定的なものはなかなかみつからない。しいていえば、ローヌ河自体か。レマン湖の水がルソー島で河になって以来、ここでは大河が滔々とながれるさまをみせてくれている。