From: yamazaki hiroshi ]
Sent: Saturday, October 18, 2008
To:
酒井 雅子
Cc:
大野 晴里; Edward Chang(張漢卿);重松輝彦。 (昭和16年学部・後期)
Subject:
峰間先生のこと

酒井 雅子  様

     山崎 坦(昭16学後)
    http://www.josuikai.net/nendokai/dec-club/
 

相変わらずご活躍の様子、何よりと応援しております。 

如水会々報10月号に、6月行われた定例晩餐会記事があり、その最後に、司会をされた由、また「峰間先生の伝記を用意された」とあります。

実は私共同期生は昭和11年4月東京商科大学予科に入学、確か漢文を峰間先生から教えていただきました。教科書を離れたお話が興味深く誠に印象的で、先生のお名前を忘れることはありません。

晩餐会の小川先生のお話と峰間先生とは如何なる関係でしょうか。

    [参考]

     峰間鹿水先生http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/senjin/index.php?Detail=true&no=126 

    岡本米蔵(明37)先輩http://www7.ocn.ne.jp/~kensho/html/31.files/31-05.htm

 

 小川先生のお話の「むすびに」には、まったく同感ですが、これから大変ですね。

 会報で気が着きましたので、懐かしく、一筆したためました。よろしく。                              

                                      草 々


 [返信]

from: 酒井雅子
Sent: Sun., October 19, 2008
To:
山崎 坦
Cc:
大野 晴里; Edward Chang (昭和16年学部・後期)
Subject:
峰間先生のこと

山崎先輩

 大変ご無沙汰をしております、酒井雅子です。

 ご丁寧なご連絡をありがとうございます。

 わたくしは平成183月より、如水会事務局にて研修文化事業の企画・運営を行っております。

 わたくしが昨年から本学の歴史を調べ始めたこともあり、ことしの5月―8月には一橋フォーラムでは「一橋大学の歴史」をテーマに実施しました。そのときに本学名誉教授の尾高煌之助先生にも講師を願いしましたところ、尾高先生が細谷新治名誉教授にインタビューをなさることになり、わたくしも同席をさせていただきました。細谷先生のお話の中に、「漢文を教えてくれた峰間先生は印象に残っている」というお言葉がありました。それまで本学の大学史に関しては幾種類か目を通しておりましたが、峰間先生のお名前は存じませんでした。一橋大学附属図書館に峰間先生の評伝があり、それをちょうど借り出した日に小川功先生の定例晩餐会がありました。

 小川功先生に講演をお願いしたのは、昨年、国立大学町の開発経緯 を調べておりましたら、国立大学町を開発した箱根土地株式会社の社長・創業者は巷間いわれるように堤康次郎ではなく当時の財界の大立者であったことがわかり、関連の文献を調べる過程で、当時滋賀大教授でいらした小川功先生が、大正時代の企業家につき膨大な調査研究をなさっていることを知ったことがきっかけです。(なおその財界の大物であった箱根土地初代社長藤田謙一は、鈴木商店関係の企業の社長もいくつか勤めておりましたが、明治大学の出身で、明治大学商議員でもありました。佐野善作先生は当時明大商学部の  教頭であり、商大の国立移転に際し箱根土地が開発したのは、その関係からであったと推測されます。また、商大同様関東大震災で壊滅的な被害を蒙った明大も、校舎の郊外移転を画策し、箱根土地が用意した小平村への移転を契約まで済ませましたがその経緯が不明朗だとして学内で反対運動が起こり、学内の派閥問題に飛び火して結局明大の小平移転は白紙になりました。

そのキャンセルになった土地に、そののち商大の予科が移転しました。

小川先生の論文の中で岡本米蔵氏のニューヨークの不動産事業を分析されたものがあり、ちょうど本学の大先輩でもありますので、小川功先生には、大正時代のリスク選好型経営者のお話、とくに岡本氏にかんしてのご講演をお願いした、という経緯です。

岡本氏の事業は、現代風にいえばREITに近く、ニューヨークの土地を日本の投資家に買わせるという投資事業なのですが、その対象となった投資家の多くはある程度の知的レベルを持ったひとたちで、具体的には学校の教員が多かったのだそうです。峰間先生は東京高等師範学校のご卒業で、師範学校卒業生に強い人脈をお持ちでしたが、その卒業生の同窓会において、岡本氏を優れた事業家として応援されたことが、学校の先生方が多く岡本氏の事業に投資をした背景にあったというお話を、当日小川先生がなさいました。

それはわたくしは存ぜず、わたくしが峰間先生の評伝を当日もっていたのはあくまでも偶然です。小川功先生が如水会報にあのようにお書きくださって恐縮しております。

 峰間先生は「弁論に長じて其の音吐朗々而も洪鐘の如し」(横山健堂編『峰間鹿水傳』)でいらしたそうですが、細谷新治先生も、「小平の予科に朝登校すると、峰間先生が本館の二階の窓から見下ろして 大きな声で学生ひとりひとりにおはよう、と挨拶をされていた」とお話しになっていました。

 「一橋大学の歴史」は今年度から一橋大学の正規科目となり、田崎宣義教授が統括され、今月から学部生・院生向けの授業が開始しております。

わたくしは上記一橋フォーラム・大学の授業共に「商法講習所の創立から東京外国語学校との合併まで」の部分を担当しています。商法講習所は森有禮が開設者ではありますが、調べてみると森よりも大久保一翁・勝海舟ら旧幕臣がむしろ中心的な役割を担ったようです。旧幕臣や富田鉄之助(仙台藩)ら、いわば非・藩閥の士族達のうち早い時期に欧米先進諸国の実際を知った人たちが、生活の糧を得るための知識習得をめざしたビジネススクールを、民の力で(初期の商法講習所の財政基盤は、七分積み金を継承した共有金や府下の豪商の醵金でした)設立した、というふうに考えております。森は米国方式の文化環境(女子教育、図書館、啓蒙団体など)構築に関心をもっていたので、米国型ビジネススクールの開設に協力をしたものと推測しています。森は明六社等で旧幕臣の知識層と深い交流をもち、自身の最初の妻も旧幕臣の子女でした。

 森有禮が明治22年、43歳の若さで暗殺されたことで、薩長政府にあって唯一の理解者にして創設者のひとりを失った本学は、旧幕臣人脈で構成されていたことがのちに政府・文部省との対立を烈しくした要因であったと考えます。

 本学の歴史については調べれば調べるほど奥が深く、おそらく一生勉強を続けなくてはいけないと思います。身命を賭して学園を守った多くの先人・先輩達に、こころから感謝しております。

 今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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Masako Sakai