大きい屋根の家物語
5組 山崎 坦
Dear ED ,Toronto
昨年2008年の2月に雪景色をお送りしたとき
貴兄から「あの大きな屋根の家はどうゆう家ですか」
とのお問い合わせがありました。
お答えするには、一寸、説明が要るので延引してしまっているうちに、
あの家に大変なことが起きてしまいました。
Dear ED,
あの大きい屋根の家は、私の家の隣のブロックに建っておりました。
私共が世田谷から引っ越してきたとき、昭和十二年(1937年)には、
既にありましたから、築70年以上になります。
ブラジルで成功して帰られた天内さんと言う方がご夫婦だけで住んでおられました。
お子さんはなかったのです。
敷地は1000坪程でしょうか、
住まいは、そのうちの400坪に和風の古風、堅固な二階家がたっておりました。
○
私が従軍している間も、
あの家は近所に起こった色々なことを見ているはずです。
敗戦で東京えも米軍が進駐してきました。
Occupied Japanになり
めぼしい洋式家屋は米軍将校の住宅用に接収されました。
あの家は和風だったから米軍に接収されることはありませんでした。
○
一寸後戻りして戦時中や、戦後直後の話になりますが、
天内さんは敷地の半分ほどを麦畑にしていました。
食糧の欠乏していた時代です。
畑の一隅に櫓を組んで、畑の上に鳥追いの紐を張って、
[脅し」を作り、
寄ってくる雀を、極めて正確な時間間隔で、
紐を引いてはカラカラと音を立てて追っておりました。
(本当に正確な時間間隔だったとは、家内が亡母から聞いた話です。)
なにか「山椒太夫」の話のようですね。
終戦直後、
天内さんは住まいを土佐の捕鯨会社社長の大家族に譲られました。
お二人で住むには大きすぎるし、
占領軍指導の財産税には、まいったのだと思います。
離れた西荻窪の小さな住まいに移られて、
そこから毎日自転車で畑に通って来ておりました。
そしてある日その途上、交通事故にあわれて
お亡くなりになりました。
○
土佐の家族にも尽きせぬ数々のエピソードがあります。
子供さんが大勢おられ、近所の子供たちも参加して、
家の周りを駆け回ります。
一番小さい六ちゃん、三つぐらいでしたか、
みんなについてゆけなくて、
それでもついてゆこうと、
泣きながら追いかけて行きます。
「反対から廻りなさい」と、
おばさんが助け舟を出しました。
○
この大家族もやがて中央に越して行きました。
最後の家族も大家族でした。
おじいさんはもう90歳を越えていましたが、
毎朝毎夕家の周囲を完璧に清掃していました。
おばあさんは眼が悪く、やがておじいさんと一緒に、
高井戸の老人ホームに入りました。
おばあさんがなくなってから、
おじいさんは認知症になりましたが、
天寿を全うして、ホームの皆さんに慕われながら、
おばあさんの後を追いました。
○
もともと大きな家ですから固定資産税・都市計画税が高額で、
メンテナンス特に植木屋さんえの支払いは莫大だったでしょう。
そして相続の問題が起きたわけです。
○
後に残ったのは、
お子さんやお孫さん方が皆新家庭を作つて出てゆかれ、
長女の寡婦がお一人、飼い猫一匹と、でした。
○
2008年3月24日
家財道具が運び出されると。
「家を解体する」という解体業者の張り紙が
門扉に貼られ
忽ち解体が始まりました。
近隣の人々からは
また隣のぶなの木の時のようには
樹木は切らないでほしい
と言う切望がありました。
樹木は残されるのかと思っていると
暫く忘れたころにあっという間に伐られていました。
暫くすると草が生えて原っぱになり
群雀が来ておりました。
そして総てなくなりました。
独りマンションに移り住まれた長女の方が
迷い猫を探しに戻られました。
涙を流しておられました。
2009年1月現在
未曾有の不況下
土地は未だに更地のままです。
○
下の写真の家も樹木も消えて更地になりました。