12月クラブ通信[平成21年(2009)8月号第130号]に投稿
”九十年を生きて” 3組 水田 洋
九十歳になろうとして − 外見からなかなか信じてもらえないのだが、九月三日に九十歳になるので、27日に記念?パーティーが行われることになった。大変ありがたいことではあるが、それほどのこと?とも思う。
それに今度は、前から喜んで企画をすすめてくれた江碕信雄を、ここにきて失うという悲劇があった。ゼミの出身ではないのに市民運動とワインでの付き合いが(ゼミナリステンより)長かった。
ゼミテンの中からは、安藤隆穂の『フランス自由主義の成立 公共圏の思想史』(2007)に学士院賞が授与された。日本で最も重い賞ということになって、こちらにも重いのだが、ぼくの評価の中には、この本によってアダム・スミス研究が国際的にも新しい段階を迎えるだろうということがあった。審査要旨の中でとくに国際的な発信が言われているのはそのためである。
何が新しいのかといえば、スミスの二つの主著がコンドルセ夫妻によって、フランスで初めて統一的に理解されたということの発見である。
ぼくが1968年の日本語論文と75年英語論文で、スミスの道徳哲学のキー概念である同感の機能が、自由競争のなかの自愛心に対する冷却作用であることを明らかにして以来、スミス研究は『国富論』より『道徳感情論』に焦点を絞ることが多かった。ぼくの論文の影響は、国内的には、本人が驚くほどの若い研究者たちの興奮に見られたし、国際的にはもちろん範囲が限られていたが、グラーズゴウ版論文集からぼくの論文だけをあげるとか、さらにはその中でしか視野に人らいないはずのロイ・パスカルの論文をあげることなどによって、推定される。
しかし実を言うと、学士院会員としてこの本に対する授賞を提案することに、ぼくは強い抵抗を感じた。言うまでもなく第一には安藤がぼくのゼミの出身であることであり、次には高い評価が、スミス研究者の独りよがりではないかということである。さいわいに学士院七分科(第一部人文・社会科学三分科、第二部自然科学四分科)のうち第二分科(法学・政治学)から強い支持を得て、五名の授賞審査委員会を組織することができた。その樋口陽一氏の支持は、授賞直後の六月六日の、日仏会館シンポジウムにも現れているし、出版のための作業も進行中である。フランス思想史とイギリス思想史の研究自体が交わらなかったというのも、考えてみればおかしなことだが。
講談社から突然、旧訳『共産党宣言』(1972)の新版をという電話があったのは、昨年の夏の終わりごろではなかったかと思う。初版の好評を覚えていたためもあって簡単に引き受けてしまったのだが、なぜ今『共産党宣言』なのだろうという疑問がわいた。しばらく迷った後の結論は、『蟹工船』ブームの余波ということだった。『蟹工船』が売れたから『共産党宣言』も売れるというわけではないにしても、それは訳者の責任ではないから、すぐに旧訳の点検にとりかかり年内出版にこぎつけた。
その作業の途中でおもいだしたのは、初版当時に資料的に援助を受けたマリア・フーニンク、村田陽一両氏のことである。二人のおかげで、『宣言』だけでなく、併せて収録した関連文書についても、原典確認の便宜を得たのである。初版のあとがきでも両氏に謝意を表明しておいたが、新版でも繰り返すことにした。ただの繰り返しではつまらないから、村田さんについては三二テーゼの翻訳問題(社会主義革命への強行的転化か急速な転化か)にふれることにした。故人の良心的な自己批判への敬意からである。(ぼくにとっては、強行的に社会主義革命に転化されるとアダム・スミスなんかやっていられなくなる?ということだ)。フーニンクについても、日本の学生運動(特に大学紛争)の資料がアムステルダムの社会史国際研究所にあるのは、彼女のおかげであると書くべきであったかもしれない。無関係に見えてもそういうつながりのうえに、一つの翻訳がなりたつのである。
さてこうしてめぐりあった『蟹工船』あるいは小林多喜二は、ぼくにとっては三度目の出会いであった。初めはもちろん学生時代、正確には生徒時代というべきだろう。中学三年から四年にかけて(1934ー35)父の蔵書の中にあった葉山嘉樹(1894ー1945)と前田河広一郎(1888−1957)の著作集を読んだのが、プロレタリア文学との出会いである。二冊とも四百ページにしては海が舞台であったことしか残っていない。そのくらいの記憶しかないのにこだわるのは、特に葉山の小林への強い影響を自他ともに認めていることを知ったからである。
『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』を読んだのも、その直後ぐらいだと思うが、内容の記憶はさらに曖昧である。それは時の流れによるというよりも、こちらの身構えができていなかったためというべきだろう。たとえば、小林多喜二がスパイにおびきだされて逮捕虐殺された1933(昭和8)年二月に
は、ぼくは中学二年、事件が起こった赤坂の福吉町は僕の通学路の一つであったのに、ショックもうけず、父の憤慨をただ聞いていただけだった。ただし他方で、大同印刷三千の労働者の戦いを描いた『太陽のない街』につ
いては、徒歩五分ぐらいのところに、大江印刷という数百人ぐらいの工場があって、ストの実物見本には事欠かなかった。
啄木の『呼子と口笛』の愛読者が目を覚まして少し広く見渡そうとしたときに、もう日が暮れかけていたというのが、ゴリキイ追悼公演で初めて築地小劇場にはいったときの、ぼくの位置であった。実は今これを書いていて記憶が鮮明になったのだが、そのころの小劇場の壁にはプロレタリア演劇の記録が残されていて、青年の神経を刺激するにはじゆうぶんであった。『逆立つレール』、『中国湖南省』、『トルクシプ鉄道』、『吼えろ支那』e
t c.思いつくままにあげてみるとこういう調子である。『中国湖南省』は久保栄の作品だが、ぼくが戦前に見た彼の作品は『火山灰地』だけで、それもずっと後のこと、つまり日が暮れてからである。彼にはほかに『群盗』や『織匠』のような、ドイツ文学からの翻訳もあり、前にあげた作家たちとは違った感じで見ていた。国外に眼を開いているということと、府立一中の反主流の先輩であると偶然に知ったこととが、奇妙に結びついて親近感を生んだらしい。
レイトカマーには築地小劇場で『蟹工船』を見る機会はなく、記憶がかなり正確に残ったぐらいで、薄茶色の紙表紙であったことを覚えているが、内容についての記憶となっているのは久板栄二郎の『北東の風』、里村欣三の『第二の人生』、本庄陸男の『石狩川』など、転向作家の作品で、ぼくはしばしば、かれらの転向以前の作品をしらなかった。そのあとに『火山灰地』があり『大仏開眼』があって、1940年8月に警視庁特高課は百名をこえる劇団員を検挙したうえで自発的解散を勧告したのである。『大仏開眼』は、皇紀二千六百年奉祝芸能祭参加作品と銘打って劇団の生き残りをかけたものだったが、特高課長の目には、農民と奴隷の苦しさを特に強調するものと映ったのである。もちろん作者のほうでも、表面をつくろいながらぎりぎりのところで自己主張をしようとしているのだから、権力側がその気で読めば全部見え見えなのである。したがって、こちらのアンテナの感度の問題で転向作品からも学ぶことができる。たとえば『第二の人生』の舞台で、主人公が薪を割りながら、低く「たて飢えたるものよ」とうたうと、ああ、あれがインターなんだと直感的にわかってしまうのだ。
インタナショナルをうたった世代というものがあるとすれば、それは築地小劇場世代でもあっただろう。転向作家の小説を、かろう じて転向以前に読むことができた世代である。あるいは大正デモクラシーの作品をもっぱら享受した世代で、それを再生産する時間は与えられなかったのである。そういう人たちが、かつては僕の眼の前にたくさんいたのだが、あの人たちはどうしたのだろう。誰もいなくなった。もちろん戦争のせいでもある。
例えば、戦艦大和の自爆作戦で空襲の直撃弾に消えた軍医少佐石塚一貫。吉田満は彼を詩人としているが、ぼくにとって小学校の先輩の慈恵医大の学生は、ドイツ語の教師であった。ぼくは彼が親友の貿易商の長男に、ぼくのことを“こいつ四年から予科に入っちまいやがった’’といったのを覚えている。相手は父親が東京高等商業出身の貿易自営業で、東京商大専門部を卒業した長男を後継者として、海外視察に出したのだった。その帰国早々の雑談の中に東京商大の後輩として予科一年のぼくが登場したというわけである。父親の貿易商は大学無用論だったらしいが、いわゆる女
中の労働時間については極めて近代的であった。ぼくは詩人としての石塚を知ることはなかったが、近衛秀麿の新交響楽団の存在そのものを知ったのが、石塚との雑談を通じてであった。築地小劇場体験とおなじような新交
響楽団体験が、山の手中産階級の中を区切るものとしてあったかもしれない。敗戦後まもない八月二十日のジャカルタで、飯田信夫指揮のジャカルタ交響楽団がベートーヴェンの第六を演奏したのも、こういう中産階級文化
の余波であっただろう。
東京青山の中産階級文化の断片に、時間を使いすぎたかもしれないが、小林多喜二自身はどこから出てきたのかというのは、ノーマ・フィールドの問題でもあっただろう。脱線をさらにまねると、ぼくとしてはこの石塚の話し相手が、網野義彦(編註、善彦)の兄でもよかった。というのは、網野がぼくに、「名大にいたとき兄から、おまえのところに水田っていうのがいるだろう、おれちょっと知ってるんだといわれまして」といったからである。ぼくは先輩たちの会話の中に網野がしばしば出てきたのをおぼえているが、あったことはない。
「紀元二千六百年」すなわち1940年にもどると、劇団の解散によって築地小劇場は僕の視野から消え、やがてぼくの不在中に、空襲によって焼失する。築地で巡り合えなかった小林多喜二に、ぼくが巡り合ったのは、このような新劇危機の中にある夏の朝だった。ぼくは歌人の経済学者大熊信行を、その定宿の山王ホテルにたずねていた。『一橋新聞』への寄稿をたのむためだっただろう。雑談の中で大熊がとりだしたのは、伊藤整の小説『街と村』であった。その幽鬼の街に、小樽高商教授時代の大熊自身が小隈宣幸氏として登場しているというのである。拾い読みで気がついたのは、文学と経済学のはざまに揺れる大熊を著者に向かって批判しているのは、雲から出てきた大林滝次(小林多喜二)の亡霊なのである。多喜二は大熊のラスキン、モリス研究に対して、もちろん新しい救世主カール・マルクスを説くことを忘れない。伊藤と小林は一年違いで小樽高商に学び、大熊の経済原論の講義を聞いたのである。
伊藤整は僕にとって、大学の文芸部の先輩であり、その詩と小説(特に前者)を愛読してもいるのだが、そのこととは別に、幽鬼の街の思想風景は、十ページを超えるので全文引用はできないが、繰り返し読んで楽しむことができる。多喜二の亡霊は語りかける。「おや、小隈(大熊)先生だ。ほら、あすこを見たまえ、君はあの人のように自分の内部に支えるものを持っているわけでもないのだろう。・・・あれが歌人にして経済学者なる小隈先生だ。君にはあの人の本当の偉さがわかるまい。つまりあの人は美意識と倫理との合致する抽象的な、ある一点を考えて、自ら自分をそこにおこうとしている。それがだね、いいか、あの人の講ずる福田徳三博士直系の経済学で可能だと思えるかね? 悲劇の人さ。・・・あれは現代日本のウイリアム・モリスだ。・・・君はどうだ。君は情緒のシステムで生きとおせる自信があるのか。いってみろ。ないだろう。ないだろう」。伊藤と小林は小樽高商の学生時代にもこういう議論をしていただろうし、そのことはかれらにとって本質的な問題であっただろう。
ところで、ぼくがこうして多喜二に巡り合ったのが、この小説の雑誌初出の時(1937)か単行本初版の時(1939)かということについては、ぼくの成長過程から見て前者では早すぎ、後者では遅すぎるという感じがする。いずれにしても、『一橋新聞』記者としてのこの朝の訪問によって、ぼくは大熊大先輩の記憶にとどめられ、つき合いは珠枝をふくめて戦後もつずいた。
多喜二との三度目の出会いは、はじめに書いたようなことがきっかけだが、媒介者は伊藤整にかわってノーマ・フィールドというアメリカ人の日本文学研究者である。母が日本人で祖母は小樽の人だという。シカゴ大学教授で『源氏物語』の研究者。小樽に国際交流基金で一年ばかり滞在して岩波新書『小林多喜二』を書きおろした。簡単に言ってしまえば明るい多喜二論である。冒頭で多喜二さんと呼びかけた著書は、政治の季節がすぎた68年世代の一員として、中産階級の立場をあきらかにする。「私自身、中産階級的生活にしがみついてきましたし、今後も、絶対に、手放したくないと思っています。それはもちろん物質的なことを意味していますが、尊厳の問題でもあります。残念ではありますが、中産階級と称せられる物質的条件なしには、人間としての尊厳が確保されない社会に生きているからです。…‥あなたは、こういう想いを軽蔑はしないだろうと思います。少なくとも、切り捨てはしないでしょう」。言いも言ったりと思う前に気がつけば、多喜二自身が小樽高商をでた有能な銀行員であった(付言しておけば、当時の北大には人文社会系の学部がなかった)。同じく中産といっても二人の間の落差がおおきすぎるが、ノーマが描く多喜二には、非合法共産党員活動家の暗さはない(もちろん逮捕・拷問・虐殺までそうだといっているのではない)。
高等教育機関を持った地方都市としての小樽から、ぼくは小林昇が『山までの町』で描いた福島の街を連想した。かれはそこの高等商業学校の教授として地方財界のエリートを送り出して暮したのである。小樽も福島も、それぞれ一つの経済社会を持ち階級構成を持っていた。小樽には貿易港があり、福島には県庁があってそれぞれの社会を特徴ずけていたが、いうまでもなく二つの高等商業学校は最も有力な地方エリートの給源だったのである。
ノーマが描く小林多喜二のこの明るさはどこからくるのか。アメリカ人が書くからでもあるが、日本の側にも、まず第一に戦前から戦後への、状況の根本的変化がある(根本的ではないという意見もありうる)。少なくとも、共産党が合法化されて国会に議席を持っているということに象徴される変化は否定できないだろう。読者も研究者も中産階級化すれば、多喜二の中産階級的(市民的というべきか)側面に目が行き届く。そこにはバランスの取れた多喜二像が出来上がり、市民たちの間にも神奈川県七沢温泉のように潜伏する彼を守ろうという動きがあったことが掘り起こされる。ノーマ[・フィールドとよぶべきだが、以下同様]だけに帰するわけにはいかないだろうが、多喜二を支持する市民たちのネットワークが多種多様の広がりを持っていることがわかった。ノーマが多喜二の家族親族にあったことも、明るさの一因であっただろう。彼らも現代日本の中産階級に属しているのである。ノーマのこの本自体が『蟹工船』ブームの余光を浴びているから、明るい
のだろうか。
プチ・ブル的明るさの指標を二つあげておこう。一つは共産党対社民党問題、もうひとつはハウスキーパー問題であって、問題そのものはよくしられている。多喜二の『工場細胞』を紹介した後で、ノーマはつぎのようにコメントする。「一般の読者は・・この時期の多喜二の作品で、なぜ社会民主主義者が官憲と同じか、質的にはそれ以上に共産党員や共産党系組合委員によって敵対視されるのか不思議に思うのではないだろうか」。彼女自身の答えは「相対的に近い価値観を共有するはずの集団の間に起こりがちなセクト主義の現れ」ということだが、多喜二ぐらいのインテリには、革命と改良の違いが理論的にわかっていたはずであり、当時は革命の可能性が信じられていたから、改良を重ねるしかあり得ない現在では理解しにくいことだが、問題は二者択一だったのである。これは源氏物語研究からはひきだせない歴史的教訓であった。
ハウスキーパー問題というのは、非合法共産党内で、活動家党員を全面的にカヴァーするために行われた女性利用制度であり、女性の人格を否定する共産党の本質を表すものとして、最も厳しく批判されたのである。マルクス自身が女性問題失格者であったことも、批判に拍車したかもしれない。しかし戦後の女性史研究の発展は、問題の暗い面だけでなく明るい面にも光を当てたので、ノーマは両面を見ることができた。非合法共産党を暗闇に抱え込んだ日本社会では、党員はもちろん、非党員でも、共産党の活動家の私生活を支えることに積極的になりえたということである。
柴田翔が『かくて我らが日々』で学生運動のなかの性を描いて、保守派の非難を浴びたが、いわゆるハウスキーパー問題は、性(愛情)の自由の問題を覆い隠さなかったか。ノーマは、多喜二が友人の援助を得て売春窟からひきあげる田口瀧子のほかに、かれの作品と生活にみられる女性を取り上げて、澤地久枝以降の日本の研究を紹介している。
『週刊読書人』(09.5.1)に「ノーマ・フィールド氏に聞く(聞き手=成田龍
一・岩崎稔)」という一面と二面のほぼ全部にわたるインタヴュー記録があって、その中で成田はノーマの方法について、つぎのようにいっている。「小林多喜二という作家とむきあうときに、ノーマさんは、作品を丁寧に読まれるとともに、そこに多喜二の行動や生き方を重ねて読み取っておられます。小林多喜二という人間をテキストとして、その作品をよむことで、これまでの読みの強い縛りであった『政治と文学』という問題を脱構築している」。
しかし、もしそうだったら作品の政治性問題は解除されても、なぜ多喜二が『蟹工船』を書いたかが問われなくなりはしないか。ノーマは成田の評価にたいして「ええ、しかしそれは決して政治を排除するということではないんです」と答えている。
『政治と文学』が強い縛りであるか、当然の読み方であるかによって、脱構築の意味は違うが、伊藤整や大熊信行を通じて多喜二を見る事を知ってみると、特に脱構築などという必要はないようである。ノーマは多喜二の周辺(伊藤や大熊をふくめて)をよく調べている。中でも田口瀧子が売春宿から目覚めて上昇していく過程は、かなりしられているようだが、多喜二の小林家の場合と共に、そのころの北日本ではよく見られた家族史の展開だったのだろうか。
ノーマの書き下ろし新書を読んだうえで『蟹工船』を読んだ。それ以外の作家研究・作品研究は全く知らないままでの印象は、ここには生産過程とその労働者が描かれていないということだった。この船は蟹を取るだけでなく、それを缶話という商品に仕上げてしまう能力つまり機械と労働者をもっているはずであり、図体も護衛も駆逐艦よりはるかに大きいのだ。多喜二は三千トン未満と書いている。多喜二によれば、労働者たちは川崎船と呼ばれる小船に乗って母船を離れ、網を仕掛けて蟹をとり、母船に帰ってくる。それから缶詰が作られるはずなのだが、それは見えてこない。
蟹工船博光丸の労働者が立ちあがったときの勢力関係は、400対10とされている。会社側の10人とは船長、高級船員、船医、労務監督、機械工、通信士などで(多喜二によれば船長、雑夫長、工場代表など)、下部は労働者と境を接しているだろう。400人の内容は水夫、火夫、漁夫、雑夫などで、水夫と火夫はそれぞれ二名の代表を出すほどに組織されている(この船の住み込みだから?)が、後の二集団を代表するのは学生二名(十七、八名のなかから)と、漁夫有志数名である。川崎船の船頭もいるはずだ。ストーリーの中心にいるのは学生を含む漁夫たちであって、彼らが川崎船という小船に乗って出漁し、網を仕掛けて蟹をとってくる様子はわかるが、缶詰はと言えば護衛の駆逐艦への土産物としていくつかが出てくるだけである。
蟹工船は工船(工場船)であってたんなる航船ではないと断られているのに、工場生産が見当らないのである。
多喜二はこれを書くのによく調べたというから、博光丸が例外的なケースであるはずはない。しかし、念のため平凡社の百科事典を見ると、次のように説明されている。蟹工船の船団は5000−6000トンの中古貨物船を改造した母船と90−100トンの独航船二隻か三隻でなり、独航船が海底に設置した網から、母船に積まれた川崎船が蟹を集めて母船に持ち帰る。母船ではカニの甲羅をとり脚を切って海水で煮沸し、中甲板の缶詰工場で缶詰にする。これはもちろん現在の蟹工船のことだろうから、80年前ははるかに小規模だったろう。それでも博光丸は缶詰を作っていたに違いないのである。多喜二のペンがそこに及ばなかったのは、そのほかの船内生活や川崎船での作業に比べて、缶詳生産工程がきわめて単純だったためだろうか。