五、鄭州にて
(1) 馬との対面
                                                                            
 私は鄭州がこの作戦の出発点であると思っている。大隊として馬を受領したのは黄河の北側であったが、私が馬に関係したのは鄭州である。鄭州郊外の川の畔にある部落を私は今でもありありと思い出す。その川に入って水浴をした後で私の手拭がこんなに綺麗であったのかと今更驚いたことも思い出である。

 私はそこで馬の訓練を受けた。馬とは一度もお付合のなかった私にとって、馬の蹄鉄を洗うなどとんでもないことであった。召集令状をもらったときにすべてをあきらめてはいたものの、個人の能力として、出来ることと出来ないこととがある。私がおっかなびっくり馬に近づくと、馬はいきなりヒヒーンと嘶く。それで私は思わず跳び退く。

 「馬に馬鹿にされてはいけない。馬は利口だから相手を見る。これはと思うと従順になるが、相手がオドオドしていると図に乗ってくる。」と予め言われていた。それはそうであろうが、当方は完全に馬に対して初対面なんだから馬から大いに舐められ、結局最後まで馬を好きになれなかった。

 そもそも愛馬行進曲のごときものは、人間の労働を馬に助けてもらうから発生するものである。わが部隊のように初か
ら馬がご主人様であり、これを目的地まで無事送り届けるのが吾々の任務であった場合、しかもその反対給付たるや、無事届けて当り前、途中で傷でも負わせれば容赦しないというような場合には到底当て嵌まるものではない。だから吾々の仲間で馬が好きになった者は皆無と思う。吾々と馬との関係は、生きるか死ぬかの闘争であった。それは、馬の世話は新兵まかせで、自分は馬に乗ることしか経験しない者には、到底わかり得ないところであろう。

 乗馬訓棟は二・三時間裸馬で行われた。鞍もなければ鐙もない。お互い仲間同志で尻を押し上げて乗せる。乗ってからはたてがみを持って空地を廻っていたが、その間何回となく振り落された。訓鎌はこれだけだ。馬というものは、落ちた人間を踏んづけないことを身をもって体験した。さらに鐙がないから落ちっ振りも見事だった。

 この小さい支那馬に、鞍を付け鎧を付けて外に出る。騎兵銃を斜に背負っている。この銃が震動の度に背骨にあたるのが苦痛だった。これで町まで使いにゆく。たゞ私は新米だから自動車の仮免の状況に似ている。平旦な道で対向車が無ければ事故はない。馬も同様で何もない原野を走っていれば無事だが、若干でも人間がいたり、荷車が通っている所では、新米の騎手は緊張する。一度友軍の車輌に擦られて馬が驚きの余り棒立ちとなり、私は落馬寸前となった。

 たゞ以上のような乗馬の機会は殆どなく、馬との思い出といえば、夜行軍のあと、疲労困憊を我慢して先ず馬に水と飼料を与えていること、暗い道を馬の手綱をとりながら、前の馬の尻だけを見て、たゞ黙々と歩いていたこと。馬が疾病にかゝらないように全身を擦っていたこと、更に後述の通り危機一髪の目にあったこと等である。

(2) 便衣と蝗
 吾々の部隊は金持であった。上海・南京などで働いていた人々が召集されたのだから、皆んななにがしかの金を持って入隊してきた。その金を部隊として預ることにした。預った金は誰かがこれを管理しなければならない。中隊の管理責任者は准尉だったと思うが、具体的な仕事は私の所へ廻ってきた。大した金額ではないから管理は容易だが、そうはいっても野戦を持ち歩くわけにもいかず、銀行に預けることになった。鄭州には朝鮮銀行の支店が出ており、駐留地から鄭州まで私が運ぶことになった。当日は私の他に上等兵と一等兵が一名宛付添ってくれて、計三名が便衣を着て町まで出掛ける
ことになった。ぼろの野良着を都合し、牛車を借りた。金櫃と騎兵銃とを牛車の上に置き、その上に麻袋やぼろ切れをかぶせた。吾々の丸刈の頭も何かでかくしたものと思う。かくて、近在の農夫が、鄭州の町まで用足しに出掛けるという恰好になった。

 初夏の良く晴れた日の午前、吾々は二名が歩き、一名が牛車に乗っているという形で悠々と麦畑の中の道を進んでゆく。
目だけは周囲に間断なく走らせるが、進行の速度は牛の歩みそのものである。鄭州への道程の半ば位まで来たろうか、何やら黒い集団が左方から現れたと思ったら、太陽が陰り、あっと思う間もなく、吾々は蝗の集団の中に包み込まれてしまった。蝗は情容赦もなく顔にも手にもビューンと来てぶつかる。スピードがあるから頬が痛くなる。勿論衣類を通して全身にぶつかっているのがわかる。下を見ると麦の穂と言わず、葉と言わず、猛烈な勢で喰い散らしている。上を見れば無数の大群が飛んでおり、天日も為に暗しという状況である。夫々の蝗は飛んできて、下りて麦を食べてまた飛び立つが、その動作を無数の蝗が間断なく行うから、上記の情景となる。蝗が麦を食べるバリバリという音で鼓膜が破れそうであった。羽音もあった筈だが識別出来なかった。蝗の跳梁する地域を通り抜けるのに牛車の歩みでは十数分かゝったように覚えている。

 私はパールバックの「大地」の中で、黄河流域の蝗の大群の記載を覚えていたが、小説が実録に基いていたことを知らされた。夕方になって帰路に再びこの場所を通ったが、既に蝗は去り、農夫がぼんやりと何も無くなった麦畑の跡に佇んでいたのが印象的であった。被害は蝗の通り道にあたった約千米幅に限られ、それを一歩外れると穂もたわわな麦畑が続いていた。被害地の中は徹底的に喰い尽されており、それこそ一草も止まぬというまでになっていた。これが南北何十里にも及ぶこともあるという。

(3) 風呂と昼寝
 鄭州の町は城壁に囲まれ、その中は賑やかであり、繁昌していた。目指す朝鮮銀行はすぐにわかった。
 私は自分が正金銀行の行員があることを自己紹介の上、用件に移った。私に付添ってくれた上等兵と一等兵は、迎えに
来る時間を決めると嬉々として街へ出ていった。私は少しでも休みたかったから一人銀行に残った。朝鮮銀行の行員は親切にもすぐ風呂を用意してくれ、寝る部屋も準備してくれた。私は久しぶりに快適な睡眠をとり、遅い昼食をご馳走になって帰路に着いた。

 こんな恵まれた待遇は応召期間中に一度しかなかった。後は除隊後に正金銀行の南京支店に立寄るまでは風呂も布団の上の睡眠も私の生活とは無縁のものであった。