六、信陽まで
(1) 夜間行軍
 吾々は再び京漢線に沿って南下を始めた。今までは苦しいといってもまだ序の口である。いよいよ本番が開始された。吾々の行軍は夜間である。制空権を完全に敵にとられ、味方の航空機は皆無である。昭和十九年の春であったか、南京から第五航空団が去った。噂によれば朝鮮に移り、更に内地の守りにつくという。これで支那大陸には日本の航空隊は一つも無くなった。爾来約一年も支那派遣軍は味方航空機の支援を受けずに戦っている。だから非常な無理をしている。その重圧は大部分前線の兵隊に伸し掛っていた。

 はからずも吾々はその前線の兵隊となり、制空権の無い軍隊の悲哀を百%味わされてしまった。昼間は馬を人家とか林の中にかくさなければならない。馬が尻尾を振るのが上空から見えても部隊の所在が発見されるという仕末である。吾々の行動は薄暮から夜明までに限られた。しかし大きな河を渡るときは昼間であったことを思い出すと、渡河の危険と、空襲の危険とのバランスをとっていたものと考える。

 夜間行軍は睡魔との闘いである。吾々は昼間は何をしていたか。夜行軍の準備をしていた。先ず三度の食事をする。それがお馬様が第一で人間様が第二である。次は馬の世話をする。自分の靴の手人はしないが、馬の蹄鉄は掃除する。随分と馬に時間をとられた。余裕をつくって寝る。しかし昼寝というものは夜の睡眠にプラスされて始めて体力の増加につながるので、昼寝だけが睡眠の全部となると誠に中途半端なものとなる。

 何時の頃からか、毎夜恒例のように吾々は銃撃を受けるようになった。畑の彼方にパチパチと銃火が見える。初のうちは薄気味が悪かったが、そのうちに暗くなると撃ってきて、明るくなると止むというパターンがわかり、それ以上攻撃してくることもなく、吾々の動きを絶えず監視しているぞという敵の意志表示らしいことがわかった。闇夜の鉄砲で、弾丸は頭の上を通過し、数を撃っても当らず、敵の毎晩のご挨拶と考えてから気が楽になった。信陽の近くで駐留中、寝ていたところをチェッコ機銃の音で目を覚した。後で小人数の敵襲で当方に被害なく撃退したという話を聞いた。

 たゞ一度重砲と思われる音を聞いたときは胆を冷した。全く腹の底にこたえるようなズシーンという重々しい響であった。吾々はご存知のような超軽装備の部隊である。騎兵銃すら全員には行き渡っていない。そんな装備では重砲を持っているような敵軍と戦える筈がない。吾々は竹槍で戦えると思う程非現実的ではなかった。
この砲声は幸いなことに一度で終った。後から伝ってきた話によると、事態は次の通りであった。

 このとき吾々の部隊は、少くとも装備において吾々よりも遥かに勝る敵部隊に、完全に包囲されていたのだそうだ。偶偶近くを通りかゝつた超重装備の友軍部隊が、これに気付き、一発大砲をお見舞したところ、その威力で敵軍は吾々の囲みを解き、消え去ったということであった。

(2) かまど歴訪
 私は専ら炊事をやらされた時期があった。だから村々の竃から竃への生活が続いた。遂には農家の構えにより、その家の竃の規模を予測できるようになった。吾々が子供の頃の日本の農家と同様竃は台所の土間にある。竃の状態は家毎に異るが、概して言えば、大・中・小の三種類の鍋を同時且つ別々にかけられるものが大きいものであり、あとはいくつかの組合せがある。

 当方は竃を使わせてもらう立場上、大きな竃の方が便利である。そこで早朝、村に着くといち早く大きな竃を持つ家を探す。そこがその日の炊事場となる。飯を炊く。汁を煮る。饅頭を蒸かす。全部この炊事場で行う。

 当時饅頭を作った方法をご披露する。農家では所謂饅頭のたねを、使い古して錆の出ている円筒形の缶(日本の家庭で一般的に使われているお茶の缶に同じ)の中に入れて保存してあった。それを分けてもらって、メリケン粉の中に入れて練る。練ったものを夜間、火を落した竃の上においておく。初めの量の倍位の量にふくれ上ったものを、適当の大きさに千切って鍋の内側に張り付ける。支那鍋であるから底が尖っている。その尖った部分に水を入れて蒸す。三倍位の量に膨れ上ったと思う。

 吾々の作った饅頭は好評であり、一度に百以上作って分けたこともあった。饅頭は発酵させるのに時間がかゝったから毎日作るといったものではなかった。

 鄭州から許昌あたりにかけては煙草の名産地であり、地場の葉から作った無銘の煙草の中に、ルビー・クイーンに匹敵するような仲々うまいものがあった。そのような煙草を燻らせながら竃に燃料を補給していたことを思い出す。

 農家の周りには棗や砂糖黍も植えられていた。夏だったから桑の実も大きくなっていたし、砂糖黍も二米を越えていた。
やがてこれらが月餅の甘味になるんだな。今年の重陽の節句を吾々は何処でむかえることになるだろうなどと考えていた。

(3) 梅  雨
 私は帰国してからも長年の間、梅雨に湿った草の勾を嗅ぐと、鄭州・新鄭・許昌等々と宿り重ねた農家の庭先を思い出した。内地で布団の上に寝て戦地を思う分には無事太平だが、この時期吾々はよく雨に濡れた。吾々が寝た牛小舎の中も納屋も湿っていた。

 湿り気は害虫を発生させるが、その一 つに蠍がある。新鄭辺りだったと思うが、暗闇の中で家の外壁に手が触れた途端、名状すべからざる激痛に見まわれ、思わず痛いと大声を出し、夢中になって手首を振り廻してしまった。予め蠍の害については注意を受けていたから、その辺のものは激痛を与えるだけで生命に別条はないと思い、そのまゝほっておいた。数時間で痛みは去ったが、指を刺されたときの激痛はすさまじいものであった。

 雨が続けば川の水量は増す。吾々は一日に何回となく川を渡らねばならないが、その橋は悉く落されている。越すべき
ものが大きな河であれば、舟で渡るか、或いは工兵隊が仮設してくれた橋を渡るか、何れかになるが、小さい川で背の立つ深さのものならば、吾々は道を歩いてきた姿そのまゝでザブザプと川の中に入る。

 こんなことを続けているうちに私の脛の出来物が膿んできた。これらの出来物は当初は蚤とか蚊とか南京虫とかに刺された傷だったと思うが、不衛生にしておくうちに次第に化膿した。そこで晴れた日の昼間、暇を作って傷口を太陽に向けた。私自身は慢性睡眠不足だからそのまゝうとうとした。そして急に傷口の痛さで目を醒ました。見ると出来物の開口部から虻が入り込んでいた。支那の虻は大きく膿を好む。膿を吸っているうちはまだいいが、そのうちに露出している肉の部分を咬むから当方は激痛を感ずることになる。ではこの出来物はどう処置したのか。何にもしなかった。何しろ一日に何回となく川に入るから一度位消毒しても始らない。

 私の右手の中指の爪は今でも左に曲ってはえている。これは壊疽にかゝつたので衛生兵に切ってもらったところだ。これはどんどん痛くなるので我慢出来ず、衛生兵に頼んだが、麻酔もしないで切られてしまった。手術後でも馬の世話は引続き行い、殊に脚部を掃除するには汚い水も使わねばならず、よくも全治したものと思う。

(4) 渡河と生命拾い
 馬を泳がして河を渡すためには、当方も手綱に掴まって一緒に泳いだ。初めは馬に後脚で蹴られるのではないかと心配したが、手綱を長くして馬脚の届かない河下の方を泳いでいれば、馬が引っ張ってくれるから、無事対岸に泳ぎ着く。馬の背に乗って泳ぎ渡るというような芸当はやらず終いであった。

 日射の強い暑い日の河原であった。中隊は大きな河にさしかかり、馬を舟に乗せて渡す準備をしていた。

 いざ出発という時になって、私の馬は手綱を前脚にからめて立ち上れなくなってしまった。馬は脚をバタバタさせている。馬がじっとしてくれさえすれば簡単に綱を外すことが出来る状態であった。しかし周囲が出発でざわついているから、馬も早く起き上ろうとし、それが出来ないのでますますいらだってきた。最早仕方がない。私は匹夫の勇を鼓舞して、馬の前脚をしがみつくようにしておさえこみ、何とか馬を宥めながら綱を外した。

 外し終った途端、突如として私は顔から頭から水を被ってしまった。一瞬何事が起ったのかわからなかった。見ると馬はすっくりと立上っており、私の水筒は栓が外れて外側が大きく凹んでいた。その頃私達は、水筒を地蔵さんの涎掛けのように前に垂らして、水が飲み易いようにしていた。

 想像するに、馬は起き上るときに、私の鳩尾に一撃を加えたが、丁度そこにあった水筒を蹴り上げたことになり、水筒は凹んで、その圧力で栓が飛び、水が噴出して、私の顔にかかった。ということになる。水筒のお蔭で命拾いをしたが、もしそこに水筒がなかった場合を考えて慄然とした次第である。

 更に愕然としたことがもう一つある。私共は各自二個宛の手榴弾を持っており、それを帯革の前部に着けていた。もしこれの安全弁でも壊されていたら、私は馬もろとも一瞬にして消え失せていたであろう。凹んだ水筒は敗戦後も私と行を共にし、東京まで持帰ったが、残念乍ら最近は所在が不明である。

河ではないが連続して降る梅雨により、水量を増した湿地帯を通った。工兵隊が渡してくれたと思われる細長い板が二列、何百米となく続いていた。予め吾々は注意を受けた。必ず板の上を透ること。一歩でも板を踏み出ないこと。底知れず吸い込まれる可能性があること。私共はこの注意を拳拳服膺しながらそろそろと渡った。幸いわが中隊は無事であったが、他の隊で泥沼の中に沈んだ者が居たという話が広まった。

(5) 騎兵銃
 騎兵銃は全員には行き渡らず、帯剣だけの兵隊が多かったが、私は不思議に銃とご縁が深かった。だからといって銃の手入を格別熱心にやった方ではない。学生時代の軍事教練とか、内地の兵営住いの兵隊のように、銃の内も外もピカピカに磨いてたら本人の身が持たないし、そのような手入は要求されなかった。その点、わが大隊の上官は形式に拘らなかったから助かった。
銃と言えばこんな経験がある。吾々は睡眠不足の夜行軍だから途中で必ず眠気がやってくる。この眠気を払い落せるう
ちはよいが、そのうちに居眠りを始める。酒に酔ったように右へフラフラ左へフラフラと千鳥足になってくる。前を行く戦友がこんな状態になると、後の者が注意するが、皆が居眠り行軍になると何とも致し方ない。馬までが居眠りを始める。

 私は突然全身が宙に浮いたあと、何物かに衝突したショックで目が醒めた。あたりは暗闇である。寝呆け眼をこすってよく見ると、そこは三米許りの崖の下で、私は畑の中に転っていることがわかった。体の何処にも傷みを感じないから、よく耕された軟い土の上に落ちたのだと想像した。

 次いで所持品に思いをはせた時、銃を手にしていないことに気が付いた。さあ困った。この暗闇である。目で見る限りその所在を確認できない。「落着いて探せば必ず発見できる」と自分に言いきかせて、その辺りを探し始めた。銃の色は土の色に融け込んで、目では識別できない。崖の上は部隊が進行中であるから、助けを求めることは出来たのだろうが、そんなことをする気もなかった。たゞ、闇雲に闇の中に手を這わせた。どの位時間がかかったか、私には長く感じられたが、実際には短時間だったと思う。とにかく手が銃に触れた時は嬉しかった。             

 私は何とか、その三米の崖を這い上って遥かに行き過ぎていた自分の中隊を追った。途中誰も私に注意するものもなく、無事自分の隊列に戻り、何事もなかったように行進を続けた。

 一度谷川に架けられた鉄橋を渡ったことがある。幸にして列車は来なかったが、危かったものだ。そのとき私共は馬を曳かず、その代りに銃を持ち荷物を背負っていた。足場としては枕木を伝ってゆくしかなく、枕木と枕木との間隔は一米近く、その下は深い谷であった。

(6) 病  兵
 途中で落伍した者は野戦病院に入れられる。
 某君は行軍中に急速に元気を無くした。歩くのが大儀そうであったが、頑張って暫くの間は吾々についてきた。そのう
ちに歩くのもフラフラし始めた。同君の荷物は既に荷車に載せてあるが、遂に本人も荷車に乗せてしまった。彼は次の野戦病院に収容された筈であるが、その後どうなったか。

 某君のように吾々の周囲から去ってゆく人も一人、二人と出て来た。皆身体に気を付けるが、不衛生、悪環境、睡眠不足と重っては身体を壊さない方が珍らしい。もっとも多い症状は下痢である。生水を飲むなということは支那在留日本人の常識であるが、ついつい手が出てしまう。
行軍中に下痢にかゝると悲惨である。便意を催してくると馬を隣に預けて、バタバタと繁みに駆け込む。排便をしている間にも部隊は遠ざかる。適当に切り上げて後仕末もそこそこに部隊を追って駆け出す。こういうことが頻々と繰返されると体が衰弱してゆく。
月光の美しい夜、池の水が奇麗に見えたので、その水で米を磨ぎ、飯盒炊さんをして食べてしまった。明るくなってから飯盒を洗おうとしたら、底に泥が一面に溜っていた。最早後の祭りであった。幸いなことにこの結果腹痛をおこした者は居なかった。
小人数の部落に大人数が宿泊するから、井戸の水が涸渇することもあった。

(7)郾城近郊
 
城の近辺であったと思うが、農家の建築様式から農夫の容貌まで西域系らしい一帯があった。私共が日常接している支那人ではなく、もっと彫の深い顔立の農夫が畑を耕していた。当時の私は中近東についての知識が皆無であったが、それにしてもこの一帯は明らかに支那ではない異国の文化圏であるという印象を受けた。現在の私の知識でいうならば、メソポタミヤ即ち現在のイラク方面か、或いはペルシャ即ち現在のイラン方面の影響を受けているのではあるまいか。支那自体も広い国であり、しかも所謂シルクロードを通じて中近東との交流が盛であった。私は何れ調べて見たいと思い乍ら、手が付かないまゝ今日に到っている。シルクロードの研究が現在盛であるが、中国においては何れもその起点乃至終点を長安としているようだ。しかし以上のような理由で郾城或いはその周辺がシルクロードに深く関わりを持っていると思われる。