八、敗戦・漢口
敗戦は八月十七日に伝えられた。その頃吾々は大別山脈を下っていた。大隊が敗戦の事実を知らされたのは十六日だそうだから、吾々は一日後れで、しかも確報ではなく「負けたらしい」というふうに伝って来た。支那の農民が空を指さして「飛機還没釆」と言って教えてくれたのが印象的であった。
次いで、吾々の去就について色々の噂が流れたが、結論としてこのまゝ山に篭ることなく、一路漢口に急ごうということになった。一度方針が決定されるや、吾々は漢口目指して急ぎに急いだ。もう夜間行軍は必要ないから、夜は充分に睡眠をとり、昼は炎天下を物ともせず、力の続く限り歩いた。
漢ロに入って驚いたことには、そこには日本軍が溢れていたことである。戦車もあった。大砲もあった。重機関銃や軽機関銃を持った軍隊は街に満ち溢れていた。さながらこれから新たな作戦が始まる前夜を思わせるような状態であった。
翌日と思うが吾々は馬を連れて揚子江を舟で渡り、武昌で馬を貨物廠に引き渡した。これで重荷が降りたわけである。
馬は屠殺されて漢口所在部隊の食糧になるという噂であった。噂は大概当るものである。馬もその運命を予知したのか、流石に最後の別離の時だけは大きい目を見開いて神妙にしていた。
私の体力は、前記の通り、漢口到着とともに尽き果て、南京まで部隊とともに連れ帰ってもらえるのか、漢口で入院させられるのか、瀬戸際に立っていた。