十一、一等車で上海へ
私は翌日か翌々日か、南京駅から上海行の汽車に乗った。切符は南京の店が格別の手配をしてくれて、一等車に乗ることができた。終戦後の九月半ば頃は列車の運行も混乱していた。私がプラットホームに着いた時には、支那人は既に三等車に溢れ、その車の屋根も混み始めていた。私は指定の窓際の席に坐り窓外を見ていた。プラットホームに人が溢れ出した。二等車も満員になったのであろう。客は一等車に崩れ込もうとして入口で妨げられた。その一部が窓から入ろうとした。それを防ごうと一等車の客は一斉に窓を閉め始めた。私の前に坐っていたデップリした商人風の男も窓を閉めたが、窓外の支那人は窓を開けようとした。商人風の支那人は窓枠を押えているが、窓外の力の方が強かったのであろう。彼は私に応援を求め、一緒に窓枠を押えてくれという。私はその時、この大人は窓外の支郭の下層階級よりも、明らかに日本人とわかる私の方を同質者と見ていると感じた。当時の支郡では民族としての連がりよりも、階級としての連がりの方が強かった。求めに応じて私は相共に窓からの侵入者を防いだ。
大別山脈の途中の村で私が筆談を交えながら話合った年配の村夫子は、私の問に対して自分の息子は山の彼方の中学に在学しているが、このあたりでは中学に行っているのは自分の息子だけだと言っていた。次いで私に何処から来たのかと問うから、東京から来たと答えたところ、そうか、東京からか、こゝらは各地方の軍隊がよく通る所だ。と言っていた。
この村夫子は東京が何処にあるかは知らず、北京も、南京も、西京までも支那にあるのだから、東京だって支那の東の地方にあっても不思議はないと考えたようだ。この村夫子も筆談を通じて私に同質性を感じたらしく、大分長いこと話し合った。支那の大人は概して気持が大きくゆったりとしていた。