十二、 終りに

 昭和二十年五月に南京を出発以来、敗戦後の九月に五カ月ぶりに南京に帰り着くまでの間に、吾々の大隊はどの程度人員が減少したか。南京で解散の前に、大隊として約五十名が減少したという話を聞いたことがある。公式記録の存否については、私は知らない。たゞ野戦病院に入院した人々が仮に各分隊で一名平均としても上記の人数を超えてしまう。

 吾々の部隊の当面の目的は新郷から漢ロまで馬を輸送することであった以上、その目的は達成されたことになる。たゞ吾々馬を運ばされた者にとって、結果として、漢口地区所在日本軍各人に馬肉一片づつを供するために、五カ月の労役に服したことは、まさにやりきれない思いである。

 召集当時、上海や南京で、主として経済活動に従事していた日本人の青壮年を、大量に動員して、全然方面の異なる、しかも各人の体力のギリギリを越えるものが要求される肉体労働を強要したことが、果して当を得たものであったかどう
か、誰もがもう一度真剣に反省する必要があろう。戦争だから己むを得ぬという考え方では進歩はありえない。たゞ、馬曳き部隊の二等兵の体験から、この動員を企画し、決断した人々の頭脳が当時正常に作動していたものとは到底考えられず、この思いは今日においても変っていない。願わくは、自衛隊が前車の轍を踏まぬことを。

 更にこの動員の犠牲となった者は、吾々二等兵である。何回も言うが、過重労働、睡眠不足、不衛生、悪環境、どれ一つとっても、体力消耗の原因をなすものばかりだ。しかも大隊の中には精力をもて余した者も居た。それらは二等兵の犠牲の上に胡坐をかいた連中だ。夜行軍をしないで鉄道を利用する。その人々は町々で夜の女まで訪れ一たという。私はこゝでピー屋に行くことの是非を問題にしているのではなく、二等兵が生きるか死ぬかの重労働を重ねているときに、その犠牲において精力を貯えたことの是非を問うているのである。

 中には馬糧を横流しして儲備券を貯め込み、敗戦による儲備券の暴落を嘆いた下士官もいたそうだ。これはお馬様まで犠牲にした行為だ。
                                                                        おわり