A.白洲次郎
「風の男・白洲次郎」青柳恵助
「プリンシプルのない日本」白洲次郎
「白洲次郎・占領を背負った男」北 康利
白洲次郎は明治35年2月7日、昭和天皇生誕の翌年、生れている。
白洲家は三田藩に於て代々儒官を務めた家柄であり、祖父・退蔵は大参事(家老職)に抜擢された程の名家であった。
父・文平は大正から昭和初期にかけて、棉花貿易で大成功を収め、ドイツのボン大学他留学生活も長かった。又、母・よし子は色白で評判の美人、おしとやかで心優しい女性であった。
次郎は母親似で、幼い頃は身体が弱く、何度も大病にかかったが、その都度、母よし子の献身的な看病のおかげで生命の危機を乗り越えた。
他方、正子の祖父・樺山資紀伯爵、母方の祖父・川村純義伯爵は、ともども薩摩藩出身で、川村家では明治天皇の意向により幼い昭和天皇と秩父宮を引取り屋敷内で里子として養育している程、皇室の信頼は厚かった。
正子は明治43年1月7日に生れ、中学までは学習院女学部に通っていたが、在学中、女性としては珍らしくアメリカの女学校に留学している。全寮制の厳しい教育を受けたが、日本国内で金融恐慌が訪づれ、樺山家も甚大な
損害を蒙り、急ぎ帰国せざるを得なかった。
最難関女子大への入学試験も合格していたのだが諦めた訳である。
次郎は大正8年に神戸一中を卒業している。併し次郎はここの学風にはなじめなかった。進学中心の教育、規則一点張りの「右へ並え」式のあり方が気にくわなかったのである。
次郎はその人生を通じ「他人と同じである」 ことに背を向け続けた男であった。少しばかり野球に熱中した時期もあったが、なんと言っても一番熱を入れたのは車の運転だった。中学五年生になった時、父親が買い与えて呉れたのが高級なアメリカ車だった。次郎の熱中ぶりは凄かった。このような生活ぶりは同世代と対等のつき合いを出来にくくさせ、周囲との間に溝が出来た。元来、人と群れることを嫌い、静かに一人でいることを好む性格であった。併しこれは周囲に倣慢とうつった。
次郎の成績は中の下くらいの所をウロついていたので、卒業に際し進学先が問題となった。最後に父・文平の決断で英国留学が決まった。大正10年19才で英国に渡航、大正13年ケムブリッジ大学クレア・カレッジに入学、大正14年卒業までの間に終生の友ロバート・セシル・ビング(通称ロビン)と出逢った。ロビンも内気で人見知りする性格で次郎と似かよった点があったのだ。ロビンは後にストラップオード伯爵家を継ぐことになる。
英国でも次郎の車愛好熱は醒めるどころか、あり余る父親からの送金で次々と高級車を買い替えて走り廻っていた。
昭和3年、金融恐慌による実家の倒産で8年間の留学生活を終えて帰国したが、父親と衝突して上京、ジャパン・アドバタイザーと云う英字新聞社に職を得た。
その間に、樺山正子の兄の紹介である茶席の会にて二人は運命の出逢いをする。双方全くの一目惚れだった。話はとんとん調子に進み、昭和4年11
月14日二人は結婚した。併し正子は家計に無頓着だし、家事も全然出来なかった。大変な奥様だった訳。
ある時、親同士が親しく、かつ幼ななじみであった牛場友彦の紹介で近衛文麿に会った。父・文平がボン大学留学中近衛文麿の父・篤麿と親しくしていた関係もあり、お互い知らない仲ではなかった。ここで次郎は近衛の側
近グループの人々と知り合い、政治にかかわって行くのである。
更に次の出逢いが待っていた。正子の実家、大磯の樺山邸で吉田茂と
逢ったのだ。後年、日米関係がギクシヤクして来た頃、吉田と次郎は駐日アメリカ大使グルーと屡々会談を持ち、必死に事態打開に苦労したことだった。
又、戦中昭和17年、近い将来間違いなく食糧不足になること、東京一円が空爆される可能性があることを理由に南多摩郡鶴川村に萱葺き屋根の百姓家を買い入れ、修復して「武相荘」と名づけ、百姓仕事にも精を出し始めた。
当時五反田に住んでいた旧制中学の同級生河上徹太郎が空襲で焼け出されたその翌早朝、次郎は「むすびと水」とを持って飛んで行き慰労すると共に、鶴川の自宅の一室を開けて約2年間無償で食事の面倒まで見ている。
昭和20年8月、終戦を迎え、次郎は東久邇内閣の外務大臣に吉田茂をするべく近衛を通じて働きかけ実現させた。自らも終戦連絡事務局に入り、外務省に詰め切りの形で頑張り、次郎の机にはGHQとの直通電話があり、時間に関係なく、呼び出されたりしていた。
このようにして戦後の日本の政局への次郎の関与が深まって行ったのである。日く、終戦連絡事務局、日本国憲法制定作業、公職資格審査委員、経済安定本部、初代貿易庁長官、通商産業省設立、電力事業再編等々。
昭和60年11月28日赤坂前田外科病院にて死去83才。
平成10年12月26日妻正子死去88才
エピソード
(1)ふたりは「新婚気分の時期が長かった」と正子が自分でのろけている程で夫婦仲はまことに良好だった。唯一と言って良い派手な喧嘩があった。新婚時代の夕食の席でのこと。明治初期の話題が出て、次郎がついうっかり「薩長の奴らは東京で散々乱暴を働いた。お前さんのお祖父さんだっておなじだらう」と口をすべらせて了った。正子にとって祖父・樺山資紀は絶対の存在である。言葉より先に手が出た。次郎の横っ面をいやと云う程引っぱたいていた。これにはさすがの次郎も鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして黙って了った。
(2)昭和天皇よりマッカーサーにクリスマス・プレゼントを贈ることとなり、その使者の役が次郎にまわって来た。GHQに持って行ったところ、すでに各国の大使を始め、諸処方々からプレゼントが来てをり、その辺一パイになっていた。マッカーサーは気軽く「その辺において呉れ」と言った。とたん次郎は真っ赤になって怒鳴りつけた。「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですか。俺は持って帰る」と言ったものだから、マッカーサーもびっくりして、あわてて謝罪し、机の上を急ぎ片つけさせ、そこえ丁重に頂いたそうである。
(3)ロサンゼルス講和会議での吉田総理の受諾演説の原稿のことだが、外務省の担当官は上司と話し合い、GHQ外交部の者と下打合せをし、占領に対する感謝の言葉を並べ立て、彼等のチェックを受けて、英文で書かれ
ていた。これを見て次郎は烈火の如く怒り、その原稿を取り上げ、「戦勝国と対等の立場になった。それなのに相手国と相談し、相手国の言葉で書く、そんなバカがどこにいる」と云う訳で次郎自ら口述し、和紙に筆で書かせた。巻紙で長さ30m、巻くと直径が10cmとなり、外国の報道関係者から「吉田のトイレットペーパー」と全世界に報道されたことだった。
(4)とにかく次郎はGHQ関係者から「日本で一番従順ならざる男」とアメリカ本国へ報告されていたとのこと。
(5)次郎の遺言「葬式無用・戒名不用」そして勲位・勲章は固辞している。