B.城山三郎

本名 杉浦英一
昭和2年8月18日生
平成19年3月22日死去79才

「花うせては面白からず 山田雄三教授の行き方考え方」(角川書店)

「そうか、もう君はいないのか」(新潮社)

中学在学中、杉本五郎中佐の遺書「大義」に心酔して、昭和20年、海軍特別幹部練習生となる。
そこで組織としての海軍、軍隊の不条理、暴力、腐敗、堕落などの実情に失望する。
それまで全体主義・軍国主義の教育をまともに受けて育って来た。
ところが戦後は一転して、全体主義は悪の権化とされ、代って自由主義・民主主義、これはどう云うことか、世の中どうなっているのか、人間とはな
んなのか、根本のところから考え直し、勉強してかからねばならなかった。

そこで選んだのが東京産業大学であった。昭和21年予科に入る。そして6カ年の学業を終えて大学を卒業、家業を継がなくて良いとのことで実家に戻り、近隣の岡崎市にある愛知学芸大学に就職、昭和27年結婚、昭和32年漸く貸家が見つかり実家から離れることとなる。
それと殆んど同時に作家として世に立つこととなり、処女作「輸出」で文学界新人賞を獲得した。
更に又、なにかと手かせ足かせの多い名古屋も離れることに決め、茅ヶ崎に居を定め
た。
昭和38年には大学を辞め、今迄の「二足の草鞋」をぬぎ捨てて「筆一本の生活」に入ったのである。


山田雄三教授とのこと

理論経済学を学びたくて山田雄三ゼミに入れて頂いた。
併し乍ら・・・・・予科時代、杉本栄一教授の経済原論の講義を聞いた。
熱のこもった、マルクス経済学に理解のある講義だった。
更に又、学部に進んで、大塚金之助教授の経済思想史の講義をとった。
講義を聞いたあとの帰り道、国電の中でたまたま教授と席が隣り合せになった。何か質問している内に、突然、大塚教授の口調が熱くなり「きみ、社会科学とは、ここの問題なんだよ」と城山の胸をつかんだことだった。

これらのことと比べると山田教授のゼミナールには、まるで別の時間が流れていた。テクストはモルグンシュテルンの「ゲームの
理論と経済行動」、数式も頻繁に出て来る。
マーシャルが言ったと言はれる “ Wa rm h e a r t  b u t  c o ol   h e a d ”の w a rm  h e a r t はどこえ行って了ったのか、城山は焦った。
そして、ついに山田ゼミを辞めようと心を決め、自分の考えを詳しく書いて、手紙でその旨申し入れをした。
無言のまま容認されるか、或は呼びつけられて叱責されるかと思っていたら、2〜3日経つと部厚い封書が届いた。開けて見たら、教授の学問に対する態度、ゼミナールについての考え、学生に対する姿勢など「あたたかい
教授その人」が溢れていた。
そして最後に「君は自由に君自身の道を選んで進んで下さい」と結ばれていた。城山三郎は途中から涙を流しながら、なん度も繰返し読んだ上で、翌日早速山田教授宅へ飛んで行き、頭を下げ心からお詫びした。

このようにして生涯をかけての「こわい有難い先生」が得られたのだ。
数十年経って、教授は退官され、研究所長も辞められたが、学者としては現役であり、
「学者有志ゼミナール」を年2〜3回、夕方から報告を聞き、ゆっくり食事を共にしながら議論を続ける、と云う会を持つようになった。そのあとで月二回、それまで義兄となり、中学では同期生であった森泰吾郎氏と教授との「二人ゼミナール」を森氏が亡くなられたあとを城山が引き継いで、教授の亡くなる直前まで続けることとなったのである。誠に眞に得難い生涯に亘る先生であったと言はざるを得ない。

妻・容子とのこと

昭和26年、大学在学中、休みで帰省中、参考文献を見るため名古屋公衆図書館に出かけたところ、規定の休館日でもないのに「本日休館」の札が出ている。とまどっていると、そこにオレンジ色がかった明るいワンピースの娘がやって来て、やはり休館日の札を見て「どうして今日お休みなんでしょう」と聞かれ、彼にも答えようがなく困って了った。2〜3言葉のやりとりのあと、二人は歩き出した。不思議とそれぞれが自宅の方への道をとらず、眞直ぐ広小路通りを散歩する形になって了った。そうしてのんびり歩いて行った先に映画館がいくつかあり、その中の一つに、ジューン・アリスンとジェームス・スチュア−トの「グレンミラー物語」をやっているのに「一緒に見ませんか」との彼の誘いに、彼女は一瞬驚いたようだが笑顔でうなづいた。
見終わって映画館を出て、明るい感じの喫茶店に入ってお茶を飲みながら暫らく話をした。優しいが整った顔立ちの女性である。このまま別れて了うのが惜しくて、図書館で再会することを約束し、彼女のアドレスと電話番号
を聞き出した。
ところがこれが大変なことになって了った。当時、名古屋は青少年の風紀に厳しく、二人が歩いているのを彼女の父親の知人が見かけて、家に通報したので、彼女は父親から大目玉を食ったのである。勿論、交際は厳に禁止されて了った。一日惚れして
「妖精か天女か」とまで思いつめていた彼に
は大きなショックだった訳である。とにかく諦めるより仕方ないと自分に言い聞かせていたら、また偶然が起った。
大学を卒業して名古屋に帰った城山が、ある時友人とダンスホールに入ったら、彼女が会社の同僚と来ていたのに出逢ったのである。それから結婚までに長くはかからなかった。

癌が判った時のこと、妻は一人で徳洲会病院に検診に出かけた。城山は駅前のマンションにある仕事場で落ち着きなく彼女の帰りを待っていた。エレベーターの音がし、聞きなれた彼女の靴音と共に、彼女の唄声が聞こえて来た。「ガン、ガン、ガンちゃん、ガンたららら・・・」おかげで何ひとつ問う必要もなく「お前は・・・」と両腕をひろげ、その中に飛び込んで来た容子を抱きしめた。「大丈夫だ、大丈夫、俺がついている」何が大丈夫か判らぬまま大丈夫を連発し、腕の中の容子の背を叩いた。

城山三郎の次女の寄稿文から

母が桜を待たずに逝ってから、父は半身を削がれたまま生きていた。
暗い病室で静かに手を重ね合い、最期の一瞬まで二人は一つだった。
ぬくもりの残るその手を離す時、父は自分の中で決別したのだろう。
現実の母と別れ、永遠の母と生きて行く。自分の心の中だけで、この直後から父は現実を遠ざけるようになった・・・その後、母との「終の住処(ツイのスミカ)」には帰れず、駅に近い仕事場が父の住居となって了った・・・母は母で父に看取られ幸福(シアワセ)であったに違いない。

亡くなる前日、夜間の付添いを珍しく頑なに私ではなく父に頼んだのも、自分の最期を察し、自らの幕は二人だけのセレモニーの中で下ろしたかったからだろう・・・

城山三郎の遺言から

あっと云う間の別れと云う感じが強い。癌と分ってから4ケ月、入院してから2カ月と少し、4才年上の夫としては、まさか容子が先に逝くなどとは思いもしなかった。もちろん容子の死を受け入れるしかないとは思うものの、彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分におそわれる。容子がいなくなって了った状態に私はうまく慣れることができない。ふと容子に話しかけようとして、われに返り「そうか、もう君はいないのか」となおも容子に話しかけようとする。

妻 旧姓小山 容子 平成12年2月24日死去 68才。