‘‘私の宗教観” 1組 鈴木貞夫
城山三郎の次女の文章から……
暗い病室で静かに手を重ね合い、最後の一瞬まで二人は一つだった。温(ヌク)もりの残るその手を離す時、父は自分の中で決別したのだろう。現実の母と別れ、永遠の母と生きて行く、自分の心の中だけで、この直後から父は現実を遠ざけるようになった。
通夜も告別式もしない。したとしても出ない。出たとしても喪服は着ない。お墓は決めても、墓参はしない。駄々児(ダダッコ)のように現実の母の死は拒絶し続けた。仏壇にも墓にも母はいない。父の心の中にだけ存在していた。・・・
以前、誰かが書いたもので読んだ憶えがある。
「人間なんて死んでしまえば、ただの物質にすぎないよ」と云うことだった。
城山三郎の心の中にあった想いも、これだったのではなからうか。彼が拒絶した現実とは、これだったのではなからうか。そんな気がしてならない。特に遺体を火葬にした時のあの感じは、私自身そうだった。母の時も、妻の時も。
わが家は代々、浄土真宗、親鸞の宗派である。親鸞のことを側近の唯円(ユイエン)が書き記した“歎異抄(タンニショウ)”も若い頃から何回か愛読している。親鸞の人間性に触れ感動したものだった。併し学生時代から、禅宗、特に道元禅師に惹かれて行った。懐奘(ェジョウ)の“正法眼蔵随聞記”も愛読した。そして和辻哲郎の「日本精神史研究」の中の“沙門道元’’など、判らないながら一生懸命読んだものだった。その後68才、現役を離れて、改めて仏教書の勉学に入って行った。東洋大学の聴講生となりインド哲学史から始めて、宗教学、禅学、法華経、華厳経、浄土経などの講義を聴いた。そのあと暫く二松学舎大学とか国学院大挙とかで、日本の古典文学の講義を聴き、又、母校一橋大学にて歴史、社会学、文学などの講義を5年間楽しんで、長い寄り道をしたが、最後に、駒沢大学に4年間通って、道元さん、特にその主著“正法眼蔵”に関する講義を聴いたりした。駒沢大学を卒業(?)してから、自宅で道元関係の本、特に“正法眼蔵’’はひと通り眼を通した。到底、「読んだ」とは言えない理解力だったと思う。道元は生と死とを峻別している。生は生、死は死。簡単に言えば薪は灰になるが、その灰は再び薪にはならない。薪は薪、灰は灰だと云う訳。極楽とか浄土と
か云う話は全然出て来ない。「身心脱落(シンジンダツラク)」、五欲を掃って綺麗になれと言うだけ。併し道元もその死に際しては、自分の病室の柱に「南無妙法蓮華経」と書き記し、法華経を口ずさみながら亡くなったとのことである。私なども多分道元さんを想い出しながら「南無阿弥陀仏」と唱えつつ往生して行くだらうと思っている。
(編註)道元・(1200〜53)鎌倉時代の僧。日本曹洞宗の開祖。号は希玄。
久我道親(クガミチチカ)の子。京都の人。比叡山で出家し、建仁寺の栄 西に師事。入来し天童山で如浄(ニヨジョウ)より法を受けた。帰国後、天福元年(1233)京都深草に興聖寺(コウショウジ)を開き、寛元2年(1244)越前に大仏寺(のち永平寺)を開いた。著書「正法眼蔵」「永平広陵」など。承陽(ショウヨウ)大師。
(編註)正法眼蔵・禅の書。道元の著。95巻。寛喜3年(1231)から建長5年(1253)にかけての和文の法語をまとめたもので、曹洞宗の根本宗典。只管打坐(シカンタザ)、本証妙修、行持道環などの独自の禅思想を展開。
(編註)正法眼蔵随聞記・禅の書。道元の日常の教えを、弟子の懐奘(エジョウ)
が筆録したもの。6巻。修行者の心構えを平易に説く。嘉禎(カティ)年間(1235〜38)成立。