画集に寄せて
石川達三
山本さんは千葉県に移住なさる前に、一時東京の高田馬場附近にも在住されたことがあり、其の頃、私は私用か日本水彩画会の用事か今は思い出せないが一度往訪したことがあった。山本さんは当時、日本水彩画会の会員(因に昭和15年会友、同22年会員、後委員、評議員、理事、参与)であり、また二科会の会友(因に昭和30年会員、後理事)であった。
水彩画で山本芸術と言うと、特に若い方にはあの細かい線や透明色や客観性のある点描風な風景画を思い浮べるでしょうが、前期の頃の画風を知る人達には、フォビズム風の一面も思い出されると思う。太い筆で不透明色を自由に駆使した画面で極めて奔放な手法であった。当時、作者は水彩絵具という材料の制縛を受けず、情感のおもむくままの表現を望み会心の作品を二科展に発表されたりした。
山本さんは明治38年に生まれ、私より4年の長で、会の事務所が細島昇一氏方にあった頃からの長いお附合いであった。今日の会誌日本水彩の発刊は昭和30年であるが、それ以前の機関紙の編集を暫時ではあったが担当されたことがあり、文筆がたち、後年の会誌に寄せられた文章をみると強い絵画観もうかがえるかと思う。併し、所謂論客ではなく寧ろ画論は余り口にされなかった。また山本さんは水彩、油彩と多作家で、昭和35年の渡欧の際は3月から7月までの間にスケッチ帳十数冊、それらは例により。みな細密に描かれたもので、作者は水彩画も油彩画も画室で制作をするので、細かく描くのは印象を深める手段であると言うのが持論のようであった。
この度、待望の画集が刊行される由。水彩と油彩と山本芸術を一巻に鑑賞できることは幸甚である。
(日本水彩画会理事長)