生き残った水彩画たち
 
                    
         山本 巌        

 図版N0.1の“美しき佐原河港”は、“佐原風景(図版の34、以下34と略記)"、佐原の土手にて(35)”、監督船就航(37”、”水辺(38”、“佐原跳橋(42)”などの作品とともに、作者が学校を出てから生家の近くにある内務省(現建設省)土木事務所に勤めていたときの、事業所付近の風物を題材として描いたものである。いまは知らず、当時はこのような勤務所はずいぶんと暇があった模様で、それをよしとして、大いに絵をかいたようである。

 これから、当時の利根川下流水郷佐原付近の状況が思い出されて、回顧的意味で古い地元出身者にとっては興味深い、図版No.1.No.42に前景として登場する女性は、小説的意味でモデルがあったかどうかは不明だが、実在の人物を写生したものではない。これは、同じころの一見写生風の人物画“村の美人(36)”、“
十六島の娘(43)”でも同じであると聞いている。これに対して,“元気なエンジさん(6)”、“浚渫船機関長(39)の人物は実在のもので、画か、れているのは、当時エンジさんと呼ばれてまわりの人々から親しまれていた河船の機関士のおじさんである。エンジさんとは、Engineからもじった愛称で、Engineを操るおじさんと言うほどの意味だが、“機関士さん”より人間味を感じるような気がする。高楼聴蝉(44)は、佐原の“たなか”という色街的繁華街にある末広という店の女性をかいたもので、今でいえばキャバレーの女性とうところだろうか。ちなみに、その当時の作者は、生家山本家が遂に倒産したため、その結果残った借金二万円余を返済すべく勤めの傍ら、同じく”たなか”で“グリルフジ”なるカフェーをやっていた。
 “総領息子(46)”、“静か(14)”、“いたずら小僧(7)”は作者の家族を題材としたもので、モデルの当事者にとっては、ただひたすら、じっと我慢をしていた足のしびれが当時をうっすらと思いださせる。“静かな湖畔(45)”は、戦争の後半の頃かかれたもので、当時家が比較的近くにあったこともあって指導を仰いでいた藤田嗣治氏の戦争画の流れにそうように画かれたものである。同じ紙面の裏には、飛行機乗りの若者の群像がかかれている。

 以上述べた作品は16点あり、いずれもこの展覧会に展示され画にも掲載されている。考えれば、これらがあのしれつな空襲下の東京で、限りなく狭いアトリエ、防空壕、焼け出された後の寄寓先、などを転々と居所を変えながら、燃えも朽ち果てもせず生き延びたのは、なんとも不思議と言うほかはない。そのなかでも、”いたずら小僧(7)”は、あの五月二十五日の東京大空襲の夕方までアトリエに飾ってあったものである。

 ”私は燃えてきたアトリエから額縁ごととりだしそれをブラ下げて堀端の方向に逃げた。火の粉が横なぐりにふりかかる。堪えられなくなって私は前の空襲の際の焼けビルの中へ走りこんで額をおき堀の中へ飛び込んだ。恐ろしい一夜を堀の中ですごし、翌朝岸に上がり昨夜の焼けビルに期待もしないで行って見ると額の一部を焦がしただけで無事ではないか”。(山本不二夫:いたずら小僧、日本水彩、会誌86,1/12(1981)より)。