解説 初期作品群を覆う佐原風景

                                     中 地 昭 男 

 天下に冠たる水郷、その中心を西から東へ流れる利根川、この利根川に、佐原市内を北上してT字形に交わる小野川がある。
 この川口の西岸に、山本の生家山本旅館がある。この川を南へ市中を遡ると、東岸に国指定の史跡伊能忠敬旧宅がある。
 この川は、佐原の歴史とともに忘れ得ない河川の一つである。

 江戸期、利根川は、東北地方に向かって開かれた江戸の開口部であった。下って、山本の幼少期でも河川の事情は変わらず、例えば、慶応義塾大学短艇部の一行は、東京湾を出て江戸川を遡って野田の運河から利根に出て、小野川岸の山本旅館に着き、そこを本拠に利根川での練習に励んだという。利根川が、常総の河川交通の大動脈であった終戦前の昭和8年ごろまで、山本旅館は、利根川に就航する各種船舶の廻船業も営んでいて、大いに栄えたようである。

 この河川交通に伴う船舶を製造する造船所(ドック)が山本旅館の対岸近くにあり、また、川底を絶えず整える浚渫船が利根を上下する。利根川岸の要所要所を結ぶ連絡が行き交う。それら船舶を監視する内務省の監督船が往来する。

 江戸期後半のあの「四州実景」の渡辺華山に代表される文人墨客の来遊時に次ぐ、水郷最後の隆盛期に、その中心地で人格形成期を送った山本にとって、わが家を中心に展開する利根の風物は、昭和8年の鉄道佐松(佐倉・松岸)線の開通、昭和11年の水郷大橋の開通等々、水上から陸上へと交通体系の変動の中で、廻船業も兼ねていたわが家の盛衰をも含めて、ますます鮮明に脳裏に 蘇るものがあった。昭和9年から終戦直前までの、山本の二科展・日本水彩展出品作の多くは、まさに、今はほとんど失われた水郷・佐原の風土性への讃歌となってある。

 昭和9年の日本水彩展第21回展の「風景」には、鎮守香取神宮の森が望まれ、前面に、山本旅館からは小野川を挟んだ対岸方面にある造船所のドックが見られ、山本絵画の舞台装置がまず出てくる。同年二科第21回展の「佐原風景」には、造船所側のドックに停泊中のスクリュー船山吹号の雄姿がみられる。昭和10年の二科第22回展の「水辺」(図版38)では、造船所前の橘号(向かって左)と内務省の監督船が、水面に影を写している。翌年の二科第23回展の監督船就航」(図版37)では、日章旗をはためかせ、煙をたなびかせながら就航する監督船が印象的である。昭和12年の第24回二科展の「佐原河港」では、更に、克明に造船所周辺が写し出されている。翌年の二科第25回展の「佐原眼鏡橋」には、山本家の前の小野川上流眼鏡橋周辺の川岸の船着場・土蔵の群・火の見等がたたずむ。ここからもう少し上流東岸に忠敬旧宅がある。  この眼鏡橋を上流方面から見たのが、昭和15年の第25回日本水彩展の「美しき佐原」。

 執念のように佐原風景を描き続けた山本は、昭和13年の第25回二科展に突然人物画「総領息子」(図版46)を発表、人物画にも並々ならぬ力量を示す。モデルは、和箪笥を背景に、置火鉢の前に正座する長男の巌氏。次の年の第26回二科展の「静か」(図版45)のモデルはヒナ夫人である。日本水彩展の人物画の初出は、同じ年の第26回展の「高楼聴蝉」(図版44)、少し漢文調の題だが、二階の窓辺で蝉しぐれを聞く女性像。この3点の人物像は、特に畳の描写に特徴があり、全体に細かい線による点描風の画面。これらは、昭和12年の上京後に師事した藤田嗣治の影響であるという。昭和16年の第28回二科展出品の「いたずら小僧」(図版7)は、この年の水彩画最高記録展で最高賞を受賞した。唐椅子に威張って座る四男の雅彦氏を正面から描いている。佐原風景に点景人物を入れた昭和15年の第27回二科展の「美しき佐原港」(図版1)、翌年の第28回展の「佐原の跳橋」(図版42)で、山本の佐原シリーズは、ほぼ完結に向い、集大成された感がある。この前後から、時代は戦時体制に入る。

 このように、作家周辺の風景、身近の人物と、力みのない地道な歩みを始めた山本は、戦後の二科展では、油彩のキュービック・フオービックな女性像へと、日本水彩展では、故郷佐原の描写から、一転して、甲斐路・信濃路等の日本的な景勝地の自然描写へと移り、名作の数々を残しているが、それらの作品群は、人々の印象に新なところである。
                                          (千葉県立美術館研究員)