山本不二夫君の想い出

                             青葉 翰於

 山本君と私の初めての出会いは一ツ橋の専門部で同じクラスに入ったからではあるが、ポート部の級別レースでクラスチャンとして、一緒にポートを漕ぐ仲間となり一層親しくなった。

 彼は体格がよくボートの重鎮であったばかりでなく、非常に明るい性格だったので、仲間のみんなに好かれていた。

 学校を出てから画家として立つようになってからも、彼の明るくて純情の溢れた画風に魅せられ同窓生の多くが、山本君の絵を喜んで分けて貰ったものである。初めの頃は彼の故郷付近の利根川の絵が多かったように記憶している。千葉の汐見ヶ丘にアトリエが竣工した時にかけつけた処、これから落付いて絵がかけるよと、にこにこしていた彼の顔が昨日のことのように私の心によみがえってくる。

 それから益々被の画境が進み、斯界の大家になってからも、気さくな山本君は加水会の絵の同好会で、熱心にアマチュアの手ほどきをして呉れたので、友人達以外にも随分彼のフアンは多い。

 冒頭に述べたクラスチャンのポート仲間が7人いたうち、近年まで生き残ったのは彼と私の二人だけだった。その山本君が先年亡くなりお通夜の席で私は悲しみに堪えなかったが、翌日の葬儀に参列して、中央の画壇ばかりでなく地元の方々も彼を深く敬愛して居られる状況をまのあたりに見て、彼は仕合せな人だとしみじみ思ったのである。

 山本君と一緒に一ツ橋を大正15年に卒業した連中は、かなり以前から同窓生一同で毎年夫妻同伴で懇親旅行に出かけているが、主人を亡くされた夫人方にも参加を歓迎しているので、山本君の奥様も毎回参加され私の家内も大変お親しくして項いている。この5月下旬の旅行中にも主人想いの奥様から彼の生前の楽しい逸話話など色々伺うことが出来たが、御子息によるこの度の企画なども山本君は霊界から喜んで居られるに違いない。
                         (日本経済調査協議会顧問)