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満州・旅順

「坂の上の雲」と叔父の戦死

5組 山崎 坦

私の実の叔父
会田三蔵(父次郎の一つ違いの弟)は

明治37年8月第1補充兵として応召、
第1師団第3連隊に入隊 


[11月10日撮影した写真を兄に送って]

同年11月征露第3軍従軍
同月29日清国盛京省松樹山戦闘中戦死 
(写真には12月10日戦没と記入されている、
旅順要塞攻撃。



司馬遼太郎著「坂の上の雲」文芸春秋版第4巻・旅順総攻撃59頁
より。まさに三蔵が参加した場面が描かれている。次に引用する.

 旅順要塞に対する第3次(数え方によっては第4次)総攻撃が行はれたのは、11月26日である。
 その攻撃部署は、右縦隊第1師団(東京)には松樹山、中央縦隊の第9師団(金沢)には二竜山、
左縦隊の第11師団(善通寺)には東鶏冠山をそれぞれうけもたせた。 
まったくの正面攻撃である。
更にこの攻撃に加えるに、一大決死隊の突撃が計画された。
 後に旅順の死闘の象徴的な存在として有名になる「白襷隊」がこれである。
 
攻撃隊員は、第1師団と第7師団から選抜されることになった。
その兵の出身地は東京府、山梨県、千葉県、埼玉県、それに北海道各地であった。
(略)
 この中村少将に率いられた「退却なし」という一千人の白襷隊が旅順要塞の砲火を浴び、
一挙に九百五十一人が血煙をあげて戦死するにいたる。
(略)
12月3日には敵味方ともに1時休戦をして屍体の交換収容に当らねばならなかった

[106年昔の話です。}



三蔵
享年二十有三 
谷中南禅寺にほうむらる。  
松岳院剣誉義雄居士

同上「坂の上の雲」二〇三高地」139頁
ーーーー、あっけないほどの簡単さで、
二〇三高地をうばった。

嗚呼
鉄血山を覆うて 山形改まる
万人斉しく仰ぐ 爾霊山