----- Original Message -----
From: yamazaki hiroshi
To: 大野 晴里 ;
Sent: Wednesday, June 08, 2011
Subject: 訃報 6組 山本 恒太郎 君

大野 晴里 兄
 
お元気ですか
まだ余震(3・11大震災)があるので ふらふらします。
 
如水会報6月号 で 6組 山本 恒太郎 君の訃報(4月2日)を知りました。
12月クラブ・ホームページ「合同慰霊祭」項にいれました。
残存会員55名になりました。そんなにいるのかな? という感じですが。
 
山本君は(山中ゼミ)野球部でしたね、5組の小林悦生君(野球部)、井上一造君(山中ゼミ)や私どもとも 仲良しでした。
予科のころ 4人で ひと夏を 軽井沢で 演劇などして 過ごしたことがありました。

小林君とは軍隊も一緒でしたね。軍隊では「山本君は予備士官学校の区隊長でえらかったんだ」
とは悦生君から聞きました。
 
名物男が次々に転生されますね。

それにつけても周年記念誌に文章を残していないのは、はてな
と思いました。 アメリカの野球 大リーガーなど極めて詳しかったですね。

故 大野 晋さんと
府立1中の旧友だったので 大野さんに12月クラブの月例会で卓話をお願いしたことがありましたね。
 

ご冥福を祈ります。 合掌。
 

小林悦生君は 今年13回忌(5月19日)だったんです。
 
ではまた。お元気で。
 
山崎 坦(5組)
 

From: 大野 晴里
Sent: Wednesday, June 08, 2011
To: yamazaki hiroshi
Subject: Re: 訃報 6組 山本 恒太郎 君

山恒の訃報で6組残、3名と。
本6月8日は私の誕生日、ついに93才。

彼と3組の坂田君と3人は前橋の第2機関銃中隊、で向き合つてビンタ、など。

又戦後は日清製粉でアメリカからの小麦輸入の仕事を、彼は物産の係りで、港の工場で会ったりしました。
 
長男からのテレビ電話での誕生祝で、僕の知ってる限りで93才はいませんと。そしてアラスカへ鮭取りに、帰国後26日葉山の別宅に、
私の孫、並びに長男、長女夫婦9名が集合し、私の誕生祝の会の手筈済みです、とのこと。有難う、と。
 
山坦大兄、いよいよ残りすくない人生。私もiPad,とTV電話に今一不慣れ、今暫くはと思います、頑張りと言わずに。
好暑、お大事に      大野 晴里
 

From: yamazaki hiroshi
To: 大野 晴里
Sent: Wednesday, June 08, 2011
Subject: Re: 訃報 6組 山本 恒太郎 君

大野兄
 
お誕生日おめでとう。
5組も重松君、張君、石川君と小生 の4人になりました。
 
機関銃と言えば3組(佐藤ゼミ)熊谷長君 が機関銃小隊長で ガダルカナルで戦死しました。静岡の連隊。豊橋の予備士官学校、機関銃でした。
私は東京 歩101連隊 トビ3062 豊橋の別の中隊でした。
重機には支那の戦闘で助けられました。誠に 頼もしかったです。
 
私はもっぱら youtube でむかしの懐かしい曲を探して楽しんでいます。たとえば パリ祭、パリの屋根の下。カッパライの一夜。小さな喫茶店。などなどなど。
 
お互いに余生を楽しみましょう。お元気で。


From: 大野 晴里
Sent: Wednesday, June 08, 2011
To: yamazaki hiroshi
Subject: Re: 訃報 6組 山本 恒太郎 君

山崎 兄
 機関銃で思い出すのは昭和19年元旦の、インド洋の大ココ島、の駐留英軍への敵前上陸。
僕は近歩3連隊だったので、前橋を卒業、間もなくフランスから分捕つた豪華客船でシンガポールへ、ホテルで2ヶ月楽しんでから師団の駐在するスマトラのメダンへ。
4組の樽君(速射砲)と。それからアンダマン島へ、そこから巡洋艦での上陸作戦。
明け方暗いうちに上陸、敵は、もぬけのから、我が軍は情報作戦に敗れたり、ビルマ戦線は済んだ、この時敗戦、を予感した。
なにもかも、遠くなりました。

アトムを完全に始末できず、復興への利権屋議員連中のアホな議会見るのもイヤ。 

長生きも、急に疲れが?

石を抱いて野に詠う、芭蕉への道へエンピツをなめる事かな?と。     大野 晴里