12月クラブ通信平成23年(2011)4月号第135号

¥ャ林 昇について語る”

3組 水田 洋

 君に弔辞を読んでもらって死にたいといっていた先輩がなくなった。

小林昇(1916−2010)先輩とは、
学歴職歴では関係がなく、
経済学史学会とアダム・スミスの会では会長をぼくがひきつぎ、
日本学士院では先任会員としてぼくの選任にかかわった。

日本十八世紀学会の初期には女性幹事の増員提案を支持したことが記憶されている。

市民運動のなかでは反原発に参加した。

ヴェトナム従軍の経験から、それに関わる戦後の運動にも参加しただろうが、あまりにも当然なので敢えて聞こうとしなかった。

彼との初対面は
おそらく、経済学史学会の創立大会あたりだっただろうが、
そこにはすでに遊部久蔵や平瀬巳之吉のような東亜研究所の短歌会で知り合った先輩がいて、
初対面の印象をうすれさせたのかもしれない。

 小林昇は東京帝国大学経済学部の出身ではあったが、
その前は第一高等学校でも、その他の国立ナンバー高校でもなかった。
国立高校のナンバー・スクールは名古屋の八高で終り、東京高校などいくつかの国立七年制高校ができたが、
それとともに財閥系の七年制高校も創立されて、そのひとつである武蔵高校が小林昇の母校であった。
この私立旧制七年制高等学校は、甲州財閥の根津嘉一郎が息子のためにつくったといわれていたが、
おなじ ように財閥系の成城高校とならんでリベラルな教育体系を軍国主義下にも崩さなかったらしく、
戦後の民主主義運動のなかに多くの知識人を供給した。
経済学史という枠の中でもこの高校は小林の前に杉本俊郎、あとに田添京二をそだてている。
かれらはこの領域で一高(旧制第一高等学校)から東大経済学部を出た研究者を、はるかにしのいでいた。
ただし、厳しい講座制を持つ帝国大学には、学科の訓練desciplineにおいて独特の厳しさがあり、
これのプラスとマイナスを、ぼくは一橋のゼミナール制度のプラス・マイナスと比べて見ている。
 
武蔵高校時代の小林は、同人雑誌に恋愛小説を書き続ける文学少年であった。
そのなかで深刻なドストイエフスキー体験があったというのだが、その内容は語られていない。
恋愛小説についても同様で、
この点は、
ぼくの『一橋寮誌』以降の恋愛小説がゼミテン(ゼミナリステンの略)にしられてしまったのとは大違いである。
もちろん小林少年は、恋愛小説に明け暮れていたわけではない。
全歌集『歴世』[2006]の後書きで、彼は次のように書いている。
「私は少年の頃から万葉や近・現代の短歌に親しみ、おのずから実作もこころみていたが、
日中戦争の深刻化する時期に大学に進み、時局に流される教授たちの対立と抗争とにたちまち絶望して、
その心境を作歌の恵みであるカタルシスで癒そうとするようになった。」
彼は三好達治の高い評価を受けた独詠の歌人として『越南悲歌』、『シュワーベンの休暇』、『百敗』という三冊の歌集を出し、
全歌集『歴世』(2006)を遺していった。
『歴世』の最後に「カレドニア初夏」として、ぼくが同行したグルノーブル、スコットランド、ヴェトナムでの作品が収められている。
ぼくはこのようなまとめ方に感謝するとともに、そのなかの次の三首を、それぞれの意味で愛好している。


 深き過去よりよぶ声あれば遠く来つユーゴー広場に降る雨は秋(グルノーブル) 

この都市(まち)に来べくもありて老いにきと城山の下の窓によりつつ(エディンバラ)
 
大義の楯を負わされて丘を下りたる牧の男が多く死にたり(ジャコバイト古戦場)

 

ヴェトナム従軍は、かれが福島高等商業学校の教授になったばかりのときに、
補充兵召集を受けたことから始まった。
負け戦はすでに明らかなのに、
いやそれだからこそ弱兵をかき集めてつくられたのだ。
小林二等兵を乗せた輸送船日永丸はサイゴン沖で魚雷を受けて沈没、
十数時間の漂流の後、救出されてサイゴンの南方軍総司令部に配属され、
その後数度の転属を重ねながら終戦を迎え復員、復職した。

 かなり前のことだが「君は敵が多いので、ぼくはそれが心配で死ねないんだ」といわれたことがあり、
そのときは「ぼくが小林さんを長生きさせることになりますね」と笑ったのだが、
残念ながらそういう効果もなくなった。
しかしこれも残念ながらだが
「君に弔辞を読んでもらって死にたい」
というご希望はそのとおりになってしまった次第である。

以上