新井 隆君の想い出
   
    一組 鈴木 貞夫

 彼は東京市立一中(今の九段高校)から東京商大予科へ入って来た。
私一人の単純な思い込み、或は一人よがりの思いだったかも知れないが、
前に亡くなっている中村達夫君の場合も同じで、
市立一中の出身者はなにか江戸っ子気質の、広い江戸文化人のように思えてならない。
日本舞踊(これは或は奥さんからの影響が強かったかも知れないが)を始めとして
歌舞伎・文楽などや三絃・浄瑠璃などにも趣味をお持ちだったようだ。 
彼と顔を合せたのは昭和11年4月小平の1年1組の教室だった。
その折は何か青っ白いヤワな感じを受けたのだが、仲々どうして芯の強いしっかり者だと判って来た。 
卒業後、何人かが続いたあとだったが、
私と二人でクラス幹事をやることとなり、大分長く続き、
そのまま「永久幹事」みたいになつてしまった。

その間彼は同期の会、十二月クラブの幹事長もつとめ立派に実績も残されている。

彼と言えば忘れられないのはカメラマンとしての実力である。
十二月クラブの海外旅行には必ず奥さんと二人で参加してをられたが、 
奥さんだけではなく、多くの人の需めに応じ て記念写真をとっていた。
記念写真と言えば 十二月クラブの集りの時は勿論、クラス会その他グループの記念写真にも欠かせない人だった。 

奥さんと言えば、平成4年4月に亡くなられているが、なんと言うか「花」のある人で 
十二月クラブの総会では何回かその日本舞踊 を御披露頂いたが、
それこそ素晴しいの一語 につきる出来映えだった。
 
その後、彼と私との二人だけの旅行が何回 かある。
いつも楽しかった想い出が残っている。

平成13年4月弘前から角館を廻った旅

行は全行程素晴しい桜の見頃にぶっかって満足したことだった。
その帰途、地名も宿屋の名前も忘れてしまったが、そこで湯上りに飲んだ冷酒のおいしかったこと、
二人ともどち らかと言えば飲める方ではないのに、あの味だけは忘れられず、
後日折にふれては二人で なっかしんだものだった。

平成14年3月には函館、札幌、小樽と廻つたのも良かった。
函館のいくつかの歴史ある教会、それと五稜郭、小樽の運河に沿った赤レンガの建物や裕次郎記念館など
良い見物(ミモノ)だった。

又、前以て連絡しておいて札幌在住のクラスメイト関口君と久々に逢い、
すっかり関口君の馳走にあづかったのもなっかしい想い出だった。
その関口君ももういない。 

私はあの頃はまだ足元もしっかりしていたし、多少せっかちの所があり、
彼は又、処々に被写体を見つけては一々シャッターを押しているので待たされることが多かったが、
怒る気にならなかったのはやはり彼の持ち前の気性、当りのやわらかさがあったからだと思う。
 
その後は遠出の旅行は億劫になり、
都内もしくは近隣の県に出かけることを考えた。

これには七組の岩本治郎君が音頭取り兼案内人であちこち出歩いた。
中でも浅草寺を中心に歩き、更に足を延ばして向島・墨堤を歩いたことなどなっかしい。
その他、鎌倉の瑞泉寺、東慶寺とか高尾山、大山、足柄山などを歩き廻ったのも、老後の楽しい想い出だ。 

併しもう元気だった岩本君も養護老人ホームに入られたし、
新井君は数ヶ月の病床にあつたあと、平成22年12月18日逝去された。
享年91才、御冥福を祈ること切である。
                     
 以上