”3・11のあとで” 水田 洋
3月11日の午後、名古屋の街中で体が浮いた。
所得税のことで税務署にいってきたところだったので、そのショックかとおもったのだが、現実におこっていたのはそんな生易しいものではなかった。
ぼくは関東大震災を、四歳になる直前に青山で体験している。路上の避難生活のなかで、チョーセンジン(虐殺)ということばが飛び交い、被服廠が大変だと伝えられた(三万二千人焼死)。
やがて鎌倉にいた厨川自村が津波で死んだとか根府川で列車が海に転落したとか、父と友人との会話でわかってくる。さらに後から伝えられたのは、ぽく自身が地震の前日まで入院していた保田の病院が、地震で崩壊して死者が出たということである。
厨川辰夫(1880−1923)は漱石の虞美人草のモデルといわれる英文学者で、京都帝国大学教授) 津波は後から知ったことだが、地震は直接に体験したので、テレビで東北の状況が繰り返し報道されているにもかかわらず、どうしても被災地を自分の目で見たいと思ったのである。これにはまったく別の理由があって、研究者として二三百年前の文献を読むとき、新しい注釈つきリプリントよりも生の原典を読もうとする癖があり、その為に金も暇もかかることがある。ドイツ中世史専攻の恩師上原専禄さんをまねたのかと思ってみたのだが、上原さんは、昭和初期のことだからゼロックスはなく、手書きの修道院文書と直接に向き合うしかなかったのかもしれない。
それで、とにかく被災地を見に行くことにしたのだが、そのときはまだそれは簡単なことではなかった。首都圏を含めて交通網がずたずたで、日本学士院が4月12日の例会を開催できないほどだったのである。そういう状態の現地に見物人が行くことは、そのこと自体がためらわれるだけでなく、実際に邪魔であっただろう。
ところが、そうして遠慮がちに情勢を見ているうちに、こちらが事件を起こしてしまった。学士院の公開講演委員会の委員長として、開会挨拶だけのために行った松山で、当日の朝、ベッドがら滑落して車椅子人間になるという醜態をひきおこしたのだ。救急車で担ぎこまれた整形外科病院での十日近い入院生活では、幸い骨折には至らなかったものの、強い筋肉痛で上半身と下半身のつなぎ目に苦労したが、ITの発達の末端にも出会うことができた。
担ぎ込まれた救急病室は六人部屋で、出入りはあったが常駐は三人、ぼくのほかはスポーツ事故の学生とパラグライダー墜落のヴュテランであった。痛みが薄れて動きが活発になったのをみはからったのだろうか、パラグライダー氏が声をかけてきた。病室の入り口に名前があるのでケイタイで調べたら、「何かの研究の世界的な第一人者だそうで、あなたは偉い人なんですね」というのである。ウイキペディアには、妻の反対で勲章をもらわなかったとも書いてあるはずなのだが、それを読んだかどうか。
彼のほうではそれよりも、この老人がパラグライダーを知っているかどうかのほうが気がかりだったらしい。しかし「知ってますよ、それってリヨンからジュネ ーヴに行く鉄道の左の湖に、山からおりてくるあれでしょう」ということで安心して、山の気流の話をしてくれた。墜落だから重傷のはずであり、入院も長いらしいのだが、かれは「女房がなんといってもパラグライダーはやめない」といっていた。もうひとりの同室人の学生は、一番若くて美人の看護婦をしとめて退院するとき、目礼していったのでこれもケイタイで知ったのだろう。
6月7日に単独行動で帰宅したときは、ただちに日常生活に戻れるものと思っていたのだが、どこかでずれていた。その6月が異常に忙しい6月であったことにもよるのだが、結局6月30日には突然足腰が立たなくなり、ろれつが回らなくなって倒れてしまった。熱中症である。どのくらい忙しかったかというと、11−12日は明治大学で総合人間学会(これは欠席)、13日は日本学士院の例会、14日は如水会館で12月クラブ(1941年12月卒業の同窓会)、18−19日は立教大学で、日本十八世紀学会の研究報告、20日は学士院で学士院賞の授賞式ということで、全部東京、授賞式にはモーニング着用のこととなっている(天皇を迎えるため)。ここまででいい加減くたびれていたところに、いいだ・ももの追悼会のかえりに新幹線で風邪を引いたのが致命的であった。
飯田桃(1926−2011)は府立一中・一高・東大法の秀才で、三島由紀夫と主席を争ったという。戦後まもなく共産党に入党、除名されて開放型(?)組織による党の再建を企図した政治思想家・詩人である。かれには『斥候よ夜はなお長きや』という戦前山の手の左翼を描いた長編があって、ぼくは愛読し、学生にも勧めたが、党の再建に付き合う気にはなれなかった。追悼会で一高のクラスメートが、この小説を彼の最高作品としたので同感を伝えた。
7月になっても体調は簡単には回復せず、フランス史(東大)の柴田三千雄の追悼会には出席通知をだしておいたのを取り消さなければならなかった。かれの『バブーフの陰謀』(1768)を書評したことからつきあいがはじまり、『岩波講座世界歴史』にぼくが珠枝と共同で「ウィーン体制期の思想」をかき、季刊『社会思想』(1971)から社会思想史学会創立(1976)にいたる柴田の協力があった。かれの最後の著書の書評では、歴史学と思想史学とのちがいをうまく説明出来なかったので、かれは不満だっただろう。
数年前に西川正雄(1933−2008)の)′追悼会で同席したのが最後になったが、そこで二人に割り当てられたのは、柴田は学問的な回想、ぼくは乾杯のリードを、ということだった。 ぼくがこういう役割を演じること、あるいはそこにいることでさえ、意外と思った人は少なくなかっただろう。司会者の古く親しい関係という紹介を受けて、ぼくは次のように話した。「ぼくは西川君のお父さんの正身先生の弟子です。スミスやホップスについて教えていただくために、たびたびお宅に伺っていました。そういうある日、待ち構えていたように正雄君と顔を合わせることになり、先生は笑いながら、息子が君を崇拝していてね、ほとんど絶対的だねといわれました。もちろん絶対的というのは先生の皮肉です。その後どれだけ正雄君のお役に立ったかと考えてみると、リンツの国際労働運動史学会を紹介したくらいでしょう」。引き続き乾杯ということになり、ぼくは「近代のために乾杯」といつたのだが、誰もついてこなかった。この発言、深く考えていたわけではなかったが、西川と歴史を否定するポストモダンの上野千鶴子との論争が記憶に残っていたためかもしれない。それよりも歴史家が一人も同調しなかつたことがおもしろかった。古代や中世の研究対象に気を取られて、自分が近代社会に生きていることを忘れたのだろうか。(つづく)(12月クラブ通信 平成23年(2011)12月号 第137号)
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平成23年七月半ばから九月にかけては、アダム・スミスの法学講義LJAの共訳の整理が主な仕事であったが、その結果は、学生時代から何度も読んだはずのスミスとホップスのあいだが、これほど近いとは今はじめてわかった、ということだった。これをもとにして、11月3日には愛知九条の会で雨宮処凛と対談することになる。
この翻訳と平行して、合計二万冊といわれる蔵書のなかから図書館が購入してくれた7000冊に、3000冊を寄贈して水田文庫を一万冊にしようと思い立ち、宅配による輸送を続けているのだが、三か月で千冊に達したというから、あと二千冊である。
ところで、9月3日には黙っていても92歳になるということが、前から気になっていた。つまりなんとなく生きているとこうなる、生きちやつた、ということである。それがきっかけで3月11日以来の、現場を見なければという思いがよみがえった。というよりもそれはあの日以来、丸山真男が思想史の説明によく使う通奏低音(執拗低音)のように、整形外科に担ぎ込まれたときも含めて頭のそこにあったのである。
じつは八月に、体調ほぼ回復と判断して出かけようとしたのだが、東北は夏祭りの最中でホテルは満室といわれたのだった。あきらめきれなかったのが、生来の放浪癖(伊東光晴によれば徘徊)に支えられて復活し、プランはすぐ出来あがった。
現地を見ること、そこで消費すること、救援・復興運動の邪魔にならないことという原則の第三によって、まず陸前高田市を除外したのは、そこには名古屋市役所からの応援職員だけでなく市民運動の仲間たちも(ぼくが代表になっているグループも)もいっているので、歓迎されるだけ邪魔になると思ったのである。海辺にかろうじて残っているホテルも、邪魔になるのを恐れてさけたが、これはむしろ消費者として役に立つことができたのかもしれない。というのは救援部隊が引き上げたのでホテルが倒産したという記事が、現地の新聞にでていたからである。
なるべく邪魔にならないように作った旅程は、きわめて簡単に、盛岡に三泊して宮古、釜石、気仙沼をそれぞれ日帰りで訪問するということになった。盛岡が鉄道網の中心であり、駅の隣と徒歩数分のところにメトロポリタン・ホテルがあることが前提になっていたが、これはやはり老人にとっては必要条件だったようである。海沿いの鉄道が寸断されている状態では、この三つの町を海沿いに老人の一人歩きでつなごうとすれば、どこかで誰かに迷惑をかけることになったかもしれない。自然に(柄にもなく)こう考えてしまうほど、現地の壊滅ゼロ状態はひどかった。
初日は東海道新幹線から東北新幹線へ東京で乗り換えるのを避けて、中部空港から仙台へ飛んだ。これはよかったのだが、空港で災害の末端にぶつかった。JR仙台駅への鉄道が復旧するのは一月さきだ、というのである。
バスで約一時間、津波が一掃した仙台平野は、 半年近くなっても「山川草木うたた荒涼」で あった。この乃木将軍の詩は、軍事的に無能 といわれるかれが漢詩では有能だということで、ぼくを困らせている。信時潔が「海ゆかば」を作曲したことについても同じ問題があるのだが、しかしそれは、かれが無能だからではなく、有能だからである。
盛岡のホテルの道を隔てて北上川が流れていて、橋から正面に岩手山を見ることができる。ここまでくれば啄木の渋民村だが、それは禁欲しよう。駅裏の飲み屋という雰囲気でもないので、ホテルで夕食ということにした。ところがスープがおわるころ「子羊はオープンに入れております」といわれ、「君、それはオーヴンじやないの?」といいかけて周りを見回すと、あしたのディナーのメインはフィッシュ・アンド・チップスという文字が目にはいった。三陸の魚をというならわからないでもないが、学食か市場の味をここで提供されようとは、日本列島の文明開化はこのようにデコボコに進行中であり、その反面としてこのホテルでは、朝食の蜂蜜が豊富でトマトがおいしかった。
翌朝、といっても昼近い11時4分に、盛岡発の列車で宮古に向ったのだが、じつはこの列車、正常運転なら盛岡行きで、山田線で宮古から釜石まで行って、そこから釜石線で盛岡に帰ってくることができる環状線なのである。乗り続ければ所要時間は五時間半。時刻表を研究しなければわからないだろう。山田線のディーゼル・カーは、千メーターをこえる北上高地の山々の間を縫って走る高原列車である。岩を削るかなりの規模のコンクリート工場がみえたときは、乗客の一人が岩を削るから岩手県なんだといったが、ここでは岩が大きすぎて、多摩丘陵の宅地造成のように身を削るおもいは伝わらなかった。カモシカに接触して十分ばかり停車したこともあったが、もちろん被害者はカモシカである。(つづく) (12月クラブ通信 平成24年(2012)4月号 第138号