[回想]昭和39年(1964年)10月10日〜 東京オリンピック 5組 山崎 坦
10月10日は晴天の特異日ということで東京オリンピックの開会式の日に決められた。
運動会の日が晴れならば半ば成功といわれる、東京国際大運動会・東京オリンピックは成功であった。
古関裕而作曲の入場行進曲は誠にこの場にふさわしい名曲で会場は浮き立っていた。下にyoutubeをリンクしたので聞いてみてください。
当時オリンピックの入場式は依然として軍隊風であった。現在のように雑然となるのは東京オリンピックの閉会式からだろう。
中央線の千駄ヶ谷付近の電車の窓から会期中国立競技場の聖火台にに聖火がともされていたのが見えた。
オリンピックのための工事は精力的にいろいろ執り行われた。
旧江戸城のお堀がたちまち首都高速自動車道に環状に埋め立てられた。かまわずに日本橋の上を跨いたのはいかがなものか。など。数寄屋橋も橋が消えた。
東海道新幹線が作られた。羽田空港からのモノレールも作られた。
競技で記憶に残るのは女子バレーで優勝した日本女子チーム。東洋の魔女と呼ばれた。
陸上ではただひとりのメダリスト円谷幸吉がいた。マラソンのゴール寸前でイギリスの走者に抜かれ3着になった。その後の悲劇も印象的であった。
マラソンの金メダリストはエチオピアのアベベ選手で、悠々と走って完全な勝利だったのが印象に残っている。彼も悲劇の最後交通事故にあったのだった。
時代によって各国の盛衰によって、その国の得意種目が変わるものですね。国によってはスポーツ大臣までおいて選手強化が国家事業のようですね。
我が国の場合、昔は水泳王国であって、戦前は、確かロスアンゼルスオリンピックでしたか、100mクロール(宮崎)(中学校の4年生でした。)をはじめとしてほとんどの種目を制覇していました。
iロサンゼルスオリンピック (1932年) における競泳競技
それは私が中学校の1年生の時のことです。浜松1中(現浜松北高)のプールで、4年生の宮崎と同じプールで泳いでいて、宮崎の猛烈なエネルギーによる泳ぎの波に圧倒された記憶があります。