会田三蔵 (伊代田三蔵)

山崎次郎の2つ年下の実弟 三男 会田保範三蔵《明治15年(1882年)9月28日生》は明治26年(1893年)4月8日伊代田兼吉の養子となる。兼吉の父 永作は東京市神田区神田山本町15番地に住んでいたが、兼吉は明治36年(1903年)2月10日下谷仲御徒町2丁目27番地に移転した。
      
       明治33年(1900年)義和団事件により出兵(北清事変) 
       明治35年(1902年)日英同盟成立
     
       明治37年(1904年)2月 日露戦争起こる

伊代田三蔵は明治37年8月第1補充兵として応召、第1師団第3連隊に入隊 同年11月征露第3軍従軍同月29日清国盛京省松樹山戦闘中戦死 享年二十有三 谷中南禅寺にほうむらる。  松岳院剣誉義雄居士

司馬遼太郎著「坂の上の雲」より。将に三蔵が参加した場面が描かれている。次に引用する.

 旅順要塞に対する第3次(数え方によっては第4次)総攻撃が行はれたのは、11月26日である。
 その攻撃部署は、右縦隊第1師団(東京)には松樹山、中央縦隊の第9師団(金沢)には二竜山、左縦隊の第11師団(善通寺)には東鶏冠山をそれぞれうけもたせた。 まったくの正面攻撃である。更にこの攻撃に加えるに、一大決死隊の突撃が計画された。
 後に旅順の死闘の象徴的な存在として有名になる「白襷隊」がこれである。
 攻撃隊員は、第1師団と第7師団から選抜されることになった。その兵の出身地は東京府、山梨県、千葉県、埼玉県、それに北海道各地で  あった。−−−−−−−−−−−−−−−−略-------
 この中村少将に率いられた「退却なし」という一千人の白襷隊が旅順要塞の砲火を浴び、一挙に九百五十一人が血煙をあげて戦死するにい  たる。----略-----12月3日には敵味方ともに1時休戦をして屍体の交換収容に当らねばならなかった。
(以下は別冊 歴史読本より)

  27日午前10時正面攻撃を断念し、攻撃目標を203高地に転換した。攻撃の先陣を切った第1師団の右翼隊が28日の夜半までに西南山頂の一角を占領したが、日本軍の攻撃目標が203高地に変わったことを察知したロシアは、要塞から増援部隊を繰り出して逆襲に出て来た  。増援部隊にはロシア海軍の兵士も参加し、山頂から水雷を発射して抵抗したのはこの時のことである。この戦闘で第1師団の将兵は攻撃続行の余力を失っていた。突撃と退却が繰り返された戦場には敵味方の屍体が四重にも五重にも重なり合っていた。占領した地点に陣地を構築しようとした日本軍は土嚢が不足していたため、これらの死体を積み上げて戦ったとさえいわれている。それでもなお第1師団は占領地を支えきれず、29日の夜半に奪還を許してしまった。


   12月6日203高地占領。
明治38年(1905年)1月2日--------延べ150余日にわたった旅順要塞をめぐる攻防戦は幕を閉じた。