楽苑 第35号(1991)
新理事長のこ挨拶と自己紹介
私 の 楽 歴
昭15 中 邨 信一郎 ( Tp T1 )
昨年 (平成二年) 四月二十六日の音楽同好会理事会で理事長に選任されましたのを機会に、
自己紹介のつもりでこの小文を本誌に寄せさせていただきます。
まことに馬鹿馬鹿しい内容であることをあらかじめお詫びしておきます。
尚、同好会はご承知の通り母校オーケストラとメルクールの音楽活動に協力することと会員相互の親睦を図ること、そのために会誌、会員名簿の発行とか、オーケストラ、メルクール両部会の活動推進につとめることになっておりますが、故長谷川初代理事長、段前理事長に比べ、まことに菲才でありますので、会員諸兄の一段のど支擾ど協力を乞い願う次第、ひとことご挨拶申し上げます。
昭和62年版「楽苑」31号に「君ケ代」という寄稿にも書きましたが、私の母方が林という姓で宮中雅楽部の伶人を世襲家業とし、私の曽祖父林廣守が伶人長のとき国歌の作曲撰者をつとめたこともあり、子供の頃から母親のおかげで「音」に近い環境で育ちました。そこへ中学(東京府立一中) に入った昭和四年に、梁田 貞という「城ケ島の雨」作曲で有名な音楽教師に出会い、三年生まで正課だった音楽は百点満点を賃らいつづけ、その頃では珍らしい音楽に強い坊やでした。昭和九年に東京商大予科に入学してすぐ音楽部の勧誘に応じたのもまことに自然でした。
委員長の古賀善三郎さん (故人)、女房役の石橋慶道さん、二年生の小川二郎さん (故人) に面接すると、
いきなりトランペットをやれとのことで素直に承服、
合唱は必ずやれということでファーストテノールに決まりました。
ラッパの練習は小平の森でブトに咬まれながら石橋さんの懇切丁寧な指導を頂きました。
合唱の練習は一ツ橋のお化屋敷のような旧校舎の一隅で、鳥居忠五郎先生自らの指導練習があり、「ミサ」ものが主でした。
さて予科・本科を通じて一番懐しい思い出は合宿で、予科二年の時銚子犬若海岸で第一回が行なわれ、
その後野尻湖、茨城県礁浜、伊豆三津海岸などと続き大成功。現在も合宿が活用されているようで大変結構なことと思います。
「実業」という言葉がありました。ギャラ稼ぎのことで、当時管楽器奏者がそんなに沢山はいなかったので、
私の場合、早稲田、法政、明治、慈恵医などの定期演奏会とか、早慶野球戦のブラスバンドなどが御座敷でしたが、音楽部丸ごとの実業もありました。
大妻女学校の場合、五年間続けて運動会にジンタバンドを引き受け、一年生の時から五年生になるまでのお嬢さんの育ち振りをトクと拝見したものでした。
YWCAのクリスマス劇にもコーラス全員で神田まで実業したものです。
しかし何といっても最高だったのは 「新響」の「第九」実業。
これはお隣りの国立音校で男子生徒が少ないことから、当時わがコーラスの指導指揮に当っていた同校の横田孝先生の斡旋によるもので、全部で九回(うち一回は大阪朝日会舘へ出張一回は10AK放送、あとは日比谷公会堂、歌舞伎座など) ステージに上り、練習回数を含めれば何百向唱ったものか、お蔭で今も暗譜で唱えるくらいです。
指揮者のローゼンストック氏の棒が何度やっても寸分たがわず全く同じ動きをしていたのに感服したこと、オケの誰か (大低は金管)がへマをすると練習ストップ、その間、関種子、四家文子、木下保、矢田部 吉さん等が最後の御願いに行くまで数十分はかかり、その間私達は大人しく待っているということは二度や三度ではありませんでした。
「第九」 のとき、殆ど「コリオラン」序曲が幕開き前座で、口氏の棒を何回となく熱心に見ていた御蔭で、
私が本科二年で委員長のときにこの曲の棒を振らせて貰らいましたが、大変役立ったことは今でも忘れません。
また「第九」 のギャラが音楽部の財政に大変寄与したことは特筆に値するものでした。
時局はあわただしくなり、昭和十三年から定期演奏会に「愛国行進曲」がオンダシに登場、
コーラス指揮者横田さんが陸軍少尉として応召出征されたのが昭和十四年。(故人)。
翌十五年、私は卒業して四月三菱商事に入社しましたが、五月には休暇して海軍主計中尉に任官、海軍経理学校で補修教育を三ケ月はど受けたあと、巡洋艦愛宕、次いで夕張に乗組み三ケ月の内南洋遠洋航海後、
昭和十六年三月横須賀軍需部に転任、軍需品の調達に服務中日米開戦となりました。 翌年、占領直後の香港に飛ぶ、嵯峨という大正元年進水の老朽砲艦の主計長となり、大尉に進級。
戦争のセの字も感じられぬ香港で大勢の音楽家がホテルやバーで働いているのを見て、この人達を集めて交響楽団を編成してみようと陸上の同志たちと相計らい文字通りの狂奔の甲斐あって、
その年の暮、第一回演奏会に漕ぎつけ、
折ょく入港していて招待に応じて聴きに行ったときは本当に嬉しうどざいました。
昭和十八年五月、巡洋艦足柄主計長に転任、スラバヤを基地に南西方面艦隊旗艦だった同艦には
軍楽隊が配属されていたので、こんな楽しいことはありませんでした。
シンガポールに寄港の時、英国製のトランペットを購い、司令長官や艦長のお許しを得て
時折軍楽隊のなかに入れて貰らい吹かせていただいたものです。海軍は粋でしたね。
昭和十九年三月、足柄は任務変更で帰国。丸三年振りで母国に帰りました。
レイテ作戦準備中の八月、
滋賀航空隊という予科練一万五千名を容する練習航空隊の主計長に転任。
ここでの隊歌作曲も思い出での一つ。
翌年五月には少佐に進級。二十九才でした。
終戦前に東海航空隊の主計長兼副官を二週間やって敗戦。
十一月復員して三菱商事に戻り、商社マン一からのやり直し、と同時に楽隊への復帰です。
先ずOB交響楽団には学生時代からトラだったので、これに復帰。
しかし楽団は火の車でとてもやっていけなさそうなので、同志相計って 「マイダスクラブ交響楽団」を結成、
山田一雄氏を指揮者に迎えた。
マイダスとはギリシャ神話にある手を触れたものみな黄金に変える力を与えられたアリジャの王「ミダス」のこと。
楽長は法政OBの平井誠氏、平井美奈子さんの夫君、コンパスが法政OBの松本(通称大松)、フリユート穴沢、
オーボエこれも法政OBの重信、ボーンも同じく法政の瀬戸口の各氏、
戦前商大オケにトラとして出演してくれた名士達。
わが校からはビオラ大沢、セロ大熊、竹内、フアゴット三田、クラ小川、ペット中邨といった面々。
昭和二十二年六月十三日~十六日、会津若松に演奏旅行、木炭バス利用。
八月十六日~十七日、千葉東金町に演奏旅行、奥田良三、関種子両氏を看板に演奏会。
良い楽団だったが名前通りの大金持はおろか、永続きしませんでした。
次いで鎌倉交響楽団の結成にあたり、勧誘を受けて入団。
初演は橋本国彦氏の指揮でベートンペン五番。これに出ただけで退団。
というのは偶然慶応出身の堤徳三という砂糖問屋の社長がグレンミラースタイル十五人編成(歌手一人を含む) のスウイングバンドをつくって稼どうということで誘いがあり、
大学時代に早稲四の小島氏(ダークダックスの創始者)からジャズの吹き方を教わったこともあるので
直ぐこれに応じることはしていたわけです。
ここでもまた重信、瀬戸口、松本の各氏らと一緒になり、
楽団名はスウイング・ヒットキット。
当局のオーディションをBクラスながら合格、一時間につきパーヘッド千円也を申受けられる公認の下、
早速儲け仕事に励みました。
初めは米軍キャンプが主たる御座敷でしたが、
品の良さが買われて、各国大使舘のパーティには頻繁に招かれました。
新橋フロリダ・ダンスホールでのロングラン出演では会社の給料を上廻るギャラがふところに入りホクホク。
ところが昭和二十六年頃になると音校軽音楽科出身∽プロに御座敷を取られはじめるし、
会社の仕事も朝鮮動乱景気で忙しくなるし仲間の年長者は役付社員になる人もあり、
そろそろ休業しようかということになりました。
それでも時折、西崎緑さんとか花柳徳兵循さんとか日舞の大家の公演で群舞のステージが織り込まれる場合、
に東海航空隊の主計長兼副官を二週間やって敗戦。十一月復員して三菱商事に戻り、商社マン一からのやり直し、と同時に楽隊への復帰です。先ずOB交響楽団には学生時代からトラだったので、これに復帰。しかし楽団は火の車でとてもやっていけなさそうなので、同志相計って 「マイダスクラブ交響楽団」を結成、山田一雄氏を ところが昭和二十六年一頃になると音校軽音楽科・出身のプロに御座敷を取られはじめるし、
会社の仕事も朝鮮動乱景気で忙しくなるし
仲間の年一長者は役付社員になる人もあり、そろそろ休業しようかということになりました。
それでも時折、西崎緑さんとか花柳徳兵衛さんとか日舞の大家の公演で群舞のステージが織り込まれる場合、
堤アンドヒズオーケストラに伴奏の御座敷がかかりました。
なかでも徳兵衛さんの「慟哭」は文部省主催芸術祭に参加、最高の芸術祭賞、文部大臣賞を授与されたものです。沖絶海域で過ぐる海戦で海底に沈んだ多数の戦死者の遺体が、直立不動で天皇の居ます方に向って居並び、
海水の動きに合わせて揺れる群舞には、
涙しながらマウスピースを唇にしたものです。
この度同好会の副理事長になって貰いました竹内君が、海外勤務に出るというので、
母校オケの指揮を引き受けたのもこの頃です。
二年ぐらい勤めましたかな。あとは炆場君にお願いしたと思います。
私も十年程東京をはなれることになり「音楽」とはある意味で疎遠になり、
国内地方勤務でのお付き合いから邦楽(小唄)に首を突っ込んだりしましたが、
結構のみこみが早く、コーラスで鍛えた歌唱力の御蔭で旦那芸が身についてしまい、
今では清元にまで没入している始末です。
先輩の高野二郎さん、濱中正次さんも長唄で鳴らしていらっしやいますしね。
故大平正芳氏が急逝されました時、
私と母校オケとの接触が再開ホテル・オークラでの追悼会に出演方が如水会で決定し、
国立での練習とオークラでの本番は私の棒でやらせていただきました。
メルクールの公演で現役OB合同ステージが上野であった時には久方振りにコーラスを満喫させていただき、
白髪の私に大向から「おじいちゃん頑張れ」の掛声がかかったのには驚きましたが佳い思い出です。
折あらば又、出たいです。
昨年の六月で五十年のサラリーマン生活に終止符を打ちました。
余生は洋楽と邦楽とに特に密接におつきあいしながら、
橋音会の諸先輩のように、
健康で優雅なビューティフル・エージングを満喫していきたいものと思っております。