楽苑  第39号(1995)

 「奥の細道」と一橋オケ

          昭18 竹 内 克 彦(Vc)

 昨年の暮に二見先輩(昭16卒)(註:4組 二見正之君)から電話で、
学芸大名誉教授の柏木俊夫氏が逝去された
とあるが一度オケを振って貰った方だと思うし、
たしか和尚さん(註:竹内君のニックネーム)の紹介によるものと記憶するが、
なつかしい人もいると思うので、
「楽苑」 に何か書いたらと提案があった。
 
正確には記憶していないが、私が旧制中学四年か五年生の頃、当時音楽の授業は下級生だけだったが、
音楽好きの友人数人で上野を卒業されて新しく赴任された柏木先生を囲んで
放課後の講堂でコーラスまがいの音を出したり、
仲間の鈴木君の家(帝大赤門前の梅月)で甘い物を御馳走になりながら
音楽の話しを伺った楽しい想い出がある。(鈴木君の母上が必ず胃散を用意して下さった。)
 
私が商大予料に入学した次の年の春の定期のあと、
五年程指揮をして下さった鈴木章氏が突如勇退されたので、
中邨現理事長が当時本科の委員長として指揮者探しに困って居られたので、
上野でプリングスハイム教授に指揮を、信時潔教授に作曲を師事した柏木氏を紹介し、
十一月十四日に日本青年館で第38回定期が盛大に行はれた。
 当時予料二年の若輩だった私は詳しく知るよしもないが、
会員券20銭徴収の許可を得るにあたり、
当時の太刀川学生課長から
「時局をわきまへ健全なる曲目を選んで貰いたいが、あくまで芸術的香りを失はぬ様」
との御注意があったとか、
曲目に柏木氏の卒業作品を加え(謝礼値引?)、
客寄せに鈴木章氏の兄の鈴木鎭一氏門下で当時売り出し中の星出いと子さんを迎えたりと、
中邨さんをはじめ先輩達の苦心のあとが見られる気がする。
 
何しろチェロを習いはじめて一年半位の私が、音は全部大熊先輩にお願いして、並ぶだけ、ではあったが、
当時トップクラスのホールだった日本青年棺の舞台で一応第一プルトに座ったのだから
忘れられない思い出の舞台だった。
然しそれ以上に驚いたのは柏木先生ではなかったかと思う。
余談だが、星出さんともその後鈴木鎭一氏の東京絃楽団のメムバーとして
一緒に音を出すことになるとは夢にも思はなかった。(本当に音を出した。)

一方柏木氏とは戦後御無沙汰してしまったが
学芸大の名誉教授になられる程音楽教育に貢献されたが、
一方本年一月十九日の 「文化往来」欄によれば、
芭蕉の「奥の細道」に触発された柏木氏が作曲した「ピアノ紀行」組曲が
外国で育った女性ピアニスト、クララ・チエコ・イナバによって日本で初演されたと記されている。
同紙によると柏木氏は芭蕪の生誕三百年に当った44年に作曲を思いたったが、
戦災に見舞われるなどで完成は遅れ、戦後の47年にずれ込み、
毎日作曲コンクール入選、52年イタリアのジェノバ作曲コンクール二位入賞後、
安川加寿子さんによる部分演奏はあったが、全曲は本邦初演とのこと。

 右の様な次第で、変った表題にしたが、
私にとっては余りにも懐かしいことなので、
      戦前の一橋オケにもこんなことがあったのかと思って読んでいただければ望外のよろこびである。