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写真中央赤のセーター 西堀君
前列左より二人目 西堀夫人
ゴルフで地球を一周
(平成5年4月号十二月クラブ通信より)
7組 西堀 正弘
わが生涯において随分と多くの時間をゴルフに費やしたものだと自分でも呆れている。
家内が「ゴルフをやらずに,その時間で本を書いていれば,
ベスト・セラーズの本が2〜3冊書けていたかも」と言うので,
「時間さえあれば本が書けるというものでなし,才能の問題だよ」と答えている。
本音は,ゴルフに費やした時間のお陰で,
決して頑健とは言えなかった私が74歳の今日を生きていられるのだと考えている。
「永生きも芸のうち」というが.私は,「永生きこそ最高の芸だ」と称し,
且つ,ゴルフこそこの芸を達成する縁(よすが)となっている,と確信している。
私がゴルフを始めたのは34年前の1959年ワシントン(米)在勤時代であった。
それ迄は一家を挙げてテニスに熱中していて,
ゴルフなんぞは老人のスポーツだと称えていたのに,
某同僚に某日,遮二無二ゴルフクラブを握らされることとなった。
ところがそれが大先輩朝海大使のお耳に入り,
大使から「西掘君,100が切れるようになったら遊んでやるよ」と言はれたので
「しからば乃公奮起せざるを得んや」とばかりに.
プロにレッスンを受けて猛チャージを始めたのである。
朝まだき暗いうちに起き出して,
ロック・クリーク・パークのパブリックコースに行き,空の白みかけるのももどかしく,ティーオフしたのである。
私独りであるから,
2ケのボールを打ちながら2ケのポールのスコアで2人のニシポリラウンドを連日続けたのである。
9ホールを終わってあがってくる頃に管理人が出勤しているので,
料金を支払い,自宅に帰ってシャワーを浴びてから大使館に出勤する。
それでいて,政務班のオフィスでは毎朝私がトップの出勤であった。
そうこうしているうちにスコアが100を切れる様になり,
「それでは」ということで,大使がメンバーである Chevy Chase C.C.での光栄あるお披露目となった。
当日の様子は省略するとして,
このことが弾みとなって,爾来,今日の私のゴルフ三昧生活が,始まったのである。
ワシントンから帰任して,霞ケ関に通勤した時期はゴルフ休眠の時期であったが,
本省勤めからジュネーヴ(スイス)に転任して再びゴルキチと化した。
ご存知の様に,ジュネーヴにはかの有名なスイス時計の時計商が多く,
その時計商達の一番のお得意さんは,日本からの旅行者で,日本人は最高の顧客なのである。
時計商は日本からの旅行者を,わがショップに紹介して貰いたいので,
日本人コミュニティのゴルフ大会があると競ってスポンサーを買って出てきて数々の賞品を提供してくれたのである。コンペの表彰は,男性組女性組と別々に入賞者が出るので,われわれ夫妻はよく入賞し,
随分と賞品の時計にあずかったものである。
口さがない連中から負け惜しみとヤッカミもあって
「可哀相に西堀大使のお宅は時計で埋まり,夜も碌々眠れないそうだ」と言っていたらしい。
その後本省に帰って数年後の在外勤務を命ぜられた国が再びジュネーヴであった。
たゞし此度の任は,軍縮委員会に対する大使という違いがあったのであるが
「西堀の奴,ゴルフをやりたくて・またまたジュネーヴに行った」と噂する輩がいたらしい。
ともあれ前後二回通算8年に及ぶジュネーヴ勤務ではよくゴルフをエンジョイした。
さて数年のジュネーヴ勤務の次の赴任地は,ベルギーの首都プラッセルであった。
国王は,ゴルフのハンディ2とか。
しかも小国なだけに外交團を大層優遇してくれるので,誠に楽しい憶い出ばかりである。
王室専用のご猟場を下賜されたときの條件が,
ゴルフ場にするならばという條件付で完成されたゴルフ場だけに,
手入れの行き届いていること此上なく,フェアウェイは文字通り緑のジユータンであった。
田中林蔵君夫妻がロンドンから飛来され,
わが夫婦と共に4人で一日,王立ゴルフ場で清遊したことは憶い出しても楽しい。
(編者註:欄外上記写真の前列最右翼が田中夫人、西堀君の右小林悦生君、
その右が田中林蔵君)
プラッセルではもう一つ愉快な憶い出がある。
話は少し遡って,ベルギー赴任直後,王様に親任状捧呈式の後,国王と二人だけの対談の折,
談たまたまゴルフ談義となったのであるが,
王様が前記の様なシングルハンディキャパーとは当方知るよしもなく,
おまけに無理をして下手なフランス語で会談し,あとで冷や汗をかいた懐い出がある。
前出スイス,ベルギー在勤中に,
夏には英国に,冬はスペイン,ポルトガル,イタリーヘと屡々ゴルフ行脚を行った。
あるとき.スコットランドのGleneagle C.C.でプレーをした日のことである。
ゴルフ場の真中にあるお城の様なホテルの屋上に翩翻と日の丸の旗が翻っているではないか。
今夜の泊りはあのお城の様なホテルである。
「これはしまった。チップを相当はずまねばなるまい」とおそれをなしていたところ,
なんと,日本人のゴルフツアーの大群が押し寄せてきて,その歓迎の意の日の丸であった。
ツアーの一行はロビーや食堂でワーワーと大騒ぎして,一日プレーをしたゞけで嵐の去る如く,
次なる目的地に去って行ってくれたのでホッとしたことがある。
スペインの地中海沿岸のコスタ・デル・ソルには幾つものゴルフコースがあり,
その中の一つソト・グランデ C.C.は
ジブラルタル海峡の絶壁を遥かに望みながらクラブを振れる素晴らしいコースであった。
コースの中にオレンヂの樹があり,熟した実が枝もたわゝに垂れているのを喰べたり,
木に吊り下げている革袋の冷たい水(革袋から水が浸み出るので,
水冷式となって冷水が袋の中で保たれる)を仰ぎ飲みつゝ渇を医したのも楽しい憶い出である。
その後,1979年プラッセルからN.Y.の国連大使に転任してからは,
国連の仕事に忙殺され
且つは日本のマスコミの眼もうっとうしいのでゴルフは少しトーンダウンしたのであった。
それでも,ロングアイランドの奥にあるPiping Rock C.C.の会員になり週末によく出掛けた。
同じロングアイランドの入口に近いDeep Dale C.C.(Click)
のメンバーであるS商事の支店長に誘はれてプレーしたが素晴らしいコースであった。
このクラブは会員総勢75名で,いっでもフリーにスタートできるという。
また年会費は定額ではなくて,
年末に決算して欠損分を会員に均等負担させるというのどかなクラブであるときいた。
そんなアメリカでも,パブリックコースは仲々スタート予約がとり難く,
漸く予約をとって出かけて行っても,スタートで延々と待たされることは珍しくない風景である。
そのようなパブリックコースとプライベイトクラブの様子を較べてみるにつけ,
改めて資本主義の功罪を考えさせられたのであった。
ともあれワシントンでゴルフを始めて,
20年かゝって地球を一周しN.Y.に戻った次第であるが,
未だに至芸に到らず,ゴルフの奥の深さを味はっている。