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いろんなゴルフ場の話
戦前のゴルフ場
左の写真は、亡父の残した古書類のなかにあった、 昭和7年8月現在の 社団法人・武蔵野カンツリー倶楽部・会員名簿 です。 武蔵野CCとは? サーチエンジンで検索した結果は後述しますが。 面白いと思ったのは 会員が別に入っている倶楽部を記入していることで 戦前昭和7年に存在した著名な ゴルフ倶楽部が解ることでした。 また当時の名士は 旧日本領ならびに日本が支配していた場所にあった ゴルフ場の会員でもあったことです。 |
上記名簿の凡例が次のように記されています。
(註:原本は旧漢字を用いているが、最近のパソコンの出してくれる漢字にしています。)
凡 例
一、本名簿ハ昭和七年八月現在ノ調ニヨル
一.人名ハABC順ニ一括ス
一、人名ノ下ニ(特)トアルハ特別会員
(賛)トアルハ賛助会員
一、本会員ニシテ他ノゴルフ倶楽部ニ所属セル物ハ左ノ通略号ヲ附ス
略号 所属ゴルフ倶楽部 (註:勿論戦後ですが、私のプレイしたことのある倶楽部○印)
東 東京ゴルフ倶楽部 ○
程 程ケ谷力ンツリー倶楽部 ○
軽 軽井澤ゴルフ倶楽部 ○
多 多摩カンツリー倶楽部 ○
根 日本レース倶楽部(根岸)
六 神戸ゴルフ倶楽部(六甲)
甲 甲南ゴルフ倶楽部
山 京都カンツリー倶楽部(山科) ? 山科ではなく、京都は上賀茂?箱庭的だがなかなか面白かった。
茨 茨木カンツリー倶楽部 ○
鳴 鳴尾ゴルフ倶楽部 ○
宝 宝塚ゴルフ倶楽部 ○
舞 舞子カンツリー倶楽部
名 名古屋ゴルフ倶楽部
福 福岡ゴルフ倶楽部
温 長崎ゴルフ倶楽部
霞 霞ヶ関カンツリー倶楽部 ○
広 広野ゴルフ倶楽部 ○
相 相模カンツリー倶楽部 ○
我 我孫子カンツリー倶楽部 ○
藤 藤澤カンツリー倶楽部
赤 赤羽ゴルフ倶楽部
銭 銭函カンツリー倶楽部
函 函館ゴルフ倶楽部
室 イタンキゴルフクラブ(室蘭)
有 有馬ゴルフ倶楽部
岡 岡山ゴルフ倶楽部
熊 熊本ゴルフ倶楽部
ヒ 廣島ゴルフ倶楽部 ?五本松?
台 淡水ゴルフ倶楽部
千 千葉カンツリー倶楽部 ○
鷹 鷹ノ台ゴルフ倶楽部 ○
中 中部台湾ゴルフ倶楽部
京 京城ゴルフ倶楽部
星 星ケ浦ゴルフ倶楽部(大連)
奉 奉天ゴルフ倶楽部
旅 旅順ゴルフ倶楽部
青 青島ゴルフ倶楽部
天 天津ゴルフ倶楽部
上 江湾カンツリー倶楽部(上海)
安 安東ゴルフ倶楽部
北 北京ゴルフ倶楽部
名簿を繰って見ると 先ず A
三菱合資会社、ゴルフで有名な 赤星氏。 東 程 軽 多 霞 赤 とでる。都合七倶楽部の会員なのである。
各会員の住所を見ると 府下北多摩郡武蔵野町吉祥寺とか市外渋谷町松涛などと現在の地番とはその呼称が違う。 三井(三井高長氏ほか)三菱(岩崎小弥太氏ほか)。
(私が三菱商事入社時の社長田中完三氏の名前もある。都合四倶楽部の会員とある。私は、昭和17年、社長に、お別れのご挨拶をして軍隊に入営したものだった。田中氏は大先輩で、ご高齢になっても頭脳明晰で有名だった。)
大倉喜七郎氏ほか、その他財閥幹部、貴族、日銀、横浜正金、、大臣(例えば鳩山一郎文部大臣)、国会議員、外務省、海軍省、陸軍省、鉄道省、電力会社、新聞社、学者、朝鮮総督府、南満洲鉄道、台湾製糖幹部などなど。
勿論この中には先輩のお名前が沢山出てくるのだが、
正田英三郎氏(日清製粉)皇后様のご実父には如水会館でよくお目にかかった。
井上鳳吉大先輩は商事の重役だった。
石井光次郎氏(東京朝日新聞)となっているが鉄道大臣もされた大先輩、シャンソンの石井好子さんのご尊父、ゴルフ界でも有名だった。
川島信太郎氏(外務省・ギリシャ公使・海外会員)となっているが、私共在学中、母校の教鞭をとられていた大先輩。
寺尾一郎氏(商事・当時は人事担当、新会社燃料担当・副社長)ボート部で有名な大先輩、スポーツマン。
その他先輩は数限りない。
○
大正十三年(1924年)日本ゴルフ協会(Japan Golf Association)が設立された。
イギリスのR&Aに遅れること170年。
アメリカ・ゴルフ協会(USGA)に遅れること30年。
神戸、根岸、東京、鳴尾、舞子、保土ヶ谷、甲南の七ゴルフ倶楽部が参加。
戦後・昭和30年ごろからのゴルフ場
上記○印のように私も戦前からあるゴルフ場あちこちでプレイしたが、それは若干上達してからだった。
最初の頃よく行ったのは砧ゴルフ場、パブリックで9ホールだった。昭和32年から公園になってしまった。
中村寅吉プロが専属で、樋口久子さんがいた。
寅さんが練習グリーンに50/60もボールを置いて、片端から打ってパターの練習をしていた。
熱心なゴルファーが沢山いたから、プレイ・スタートの順番を取るのが大変だった。
世田谷在住のTさんが順番を確保する役で、早朝まだ暗いうちに、順番を決める樋のような設備に自分のボールを入れに行ってくれた。
私は杉並からまだ環八も出来ていなかった、裏道を小さな車を駆って、まだ寝静まっている街を30分ほどで走りぬけ、盛んに砧えかよった。公園にされる少し前には夜間照明で夜もプレイできるようになったが、下手なショットでは
ボールが何処えいったか解らなくて、夜は2度とは行かなかったと思う。
砧えは色んな方がみえたが、風呂場で第41代横綱 千代の山と一緒になったことがあった、彼が湯船に入るとお湯は豪快に溢れた。
砧と同様によく出かけたのは東雲だった。海辺だから冬は特に寒く、フェアーウエイは硬く凍っていた。ティーショットがカンカンカーンといって何処までも転がっていった。
鷹の台えよく行った。昔はラフを刈り込まなかったから、ラフからの脱出が難しかった。バンカーショットのようにと言うか、ニブリック(9番アイアン)でと言うことであった。鷹の台はティーグラウンドからフェアウェイまでが遠く、そこがラフだったから大変だった。広大なコースの印象だった。
○
最初のプライベイトコンペは、同期会が伊東で行われた際、多分昭和三十一年で同好会発足以前だったと思うが、伊東国際ゴルフ(一碧湖のゴルフ場の上の方)で、だったと思う。雄大な山岳コースはなかなか良かったが、やがて濃霧がかかって、先が見えず閉口した。一碧湖のゴルフ場も面白かった。
学友とのゴルフは樽央也君のお骨折りで十二月クラブ・ゴルフ同好会はリストアップされている。クリックして特に写真を見ていただきたい。随分方々のゴルフ場え行った。(数えてみると20箇所ほど・44回)
クラスメートとも遠征した。
宮崎のフェニックス。寒くなると公式大会が良く行われる。
寒くなったら行くゴルフ場といえば、川奈だろう、冨士コース、大島コースいずれもおもしろい。名前のついた名物ホールを楽しんだものだ。
大洗も林間で比較的暖かかった。森田君がアレンジしてくれて一晩泊まり、美味しい魚料理をご馳走になった。
林間だったから、打ち込んでカーンと響く木の音が懐かしい。
広野では予期せずクラスメートの菅谷君に出会った。彼は須磨在住・菅谷汽船の社長だったから、若くても頭髪後退して、貫禄充分だった。広野は日本一のCCだと青木功プロも絶賛していたが、その通りで、クラブハウスは一度火災にあったが、古い名門らしい格調がある。(アリソンバンカーが難しい。)
冬、別の機会に広野を訪問した際、雪でクローズと言う目にあい、なんと少々移動して雪のない小野でプレイできたことがあった。また、この寒い日の、小野の付近での鴨鍋が誠に結構であった。
昔は十一月になるとオフ・シーズンでクローズになるゴルフ場が多くて、現在のようにがつがつと年中プレーすることはなかった。
暖かいゴルフ場といえばゴルフ・マニヤだった小林悦生君の場合、冬・館山、夏、冨士桜(川口湖)、シーズン中は長竹ときめて計画していたが、冬はハワイ、バリ島も再三だった。また、夏、十二月クラブの旅行でカナダ・バンフでのゴルフは快適だったようだ。勤務地がサモア、ガテマラ、ロスアンジェルス、ミラノ、アジア監督だったから、その土地土地で周辺のゴルフ場を経験した。ミラノの場合にスイスのゴルフ場といった按配です。
夏のゴルフ(クリック)は軽井沢、その後随分沢山のゴルフ場が出来た。那須は芝がよくって魅力があった。
箱根はやや暑いが是も夏のゴルフ場だ。古いところは冨士屋ホテルの仙石原ゴルフ場、9ホール、リゾートゴルフ場の草分けだろう。箱根は矢張り箱根カントリークラブ。大箱根にはpar6の馬鹿長いホールがあった。涼しくプレイしようと思って行ったところ意外に暑かった。
富士山周辺にも随分ゴルフ場が沢山出来た。東冨士(三菱地所)は隣に自動車レースサーキットがあってうるさかったが、爽快ではあったものの、天候にはしばしば悩まされた。冨士小山など同様なゴルフ場があった。
古いところでは山中湖ゴルフ場えはよく行った。冨士桜(河口湖)も良いゴルフ場だった。
家が杉並だったから近いところで昭和30年頃できたての立川国際カントリークラブ(日本航空伍堂氏理事長)にはいったが、山岳系で、未熟者にはきつかったので、会社の関係もあり、長竹カントリークラブ(クリック)に入った。家から自分で運転して、中央自動車道経由1時間10分ほどであった。途中の景色も変化があり、途中富士山が見えたりして、ドライブも苦にならず、快適であった。四季折々の花の鑑賞も楽しく、気にいっていたし、何よりも気のあったパートナーに恵まれた。長竹に関しては別に詳述したい。
周知のクラブに小金井がある。拙宅からは30分ほどの近さである。会員権が馬鹿高かった。世襲会員が多く。十二月クラブでは2組山崎 昶君(マネージャーをやった。)5組佐藤敏登君がメンバーだった。両君にはここでのプレーのお世話になった。
ここでは一橋と東京工大のOBゴルフ会が度々催された。4大学連合の一角だろう。仲良しだ。
佐藤君の家は打ち放し練習場の隣で、彼はこのゴルフ場を120%エンジョイしたようだ。
現在の保土ヶ谷は昔の場所から移転しているが、昔の保土ヶ谷でプライベイト・コンペで優勝したことがある。
この古い名門コースでの優勝は大変うれしくて、今でも覚えている。(昭和41年1966年6月22日)
この年私は47歳で、この頃がピークだったようだ。千葉CC、冨士小山CC、千葉パブリック、4試合で優勝した。
ゴルファーは一生に一度はホール・イン・ワンをやってみたいものだと思っているだろう。私は、残念ながら果たせなかった。
予期せぬ人から何か贈り物が届いたことが3/4回ある。例えば
手拭。
私はといえば、
唯一度、昭和43年6月29日戸塚カントリー・クラブ(名瀬コース)4番のミドル・ホールでイーグルを出しました。
クリック
学友のゴルフ文集より古田土君の寄稿文ににエピソードを添えようと、彼や佐藤敏登君とよく宝塚でプレーしたことを書いた。そのうちにだらだらといろんなゴルフ場の話になってしまったので「色々なゴルフ場」とこの項目別にを設けた次第です。
宝塚ゴルフ・クラブで雷雨にあい、そばの桜の木に雷が落ちたときは、恐ろしかった。クラブをほうり出して避雷小屋に逃げこんだ。
日光のゴルフ場は落雷が有名で、死亡事故も起きた様だ。
雷が接近してくるとクラブではサイレンを鳴らしてプレイ中止を教えてくれる。
雷は唯一アンプレイヤブルの天候だろう。雷以外では余程ひどい天気でもプレイした。
雪のとき、赤色ボールでプレイしたが、ボールがカステラまきのように、雪巻きになって、探しにくく、グリーンではワンクラブOKなどでプレイしたが、面白くはなかった。
赤色ボールはクウェイトの土漠?のゴルフ場でも使っていた。
山中湖のゴルフ場えはよく行った、夏の暴風雨の中で、膚まで雨が浸透、当時クラブのグリップはまだ皮革製でよく滑った。フェアウェイでボールと一緒にクラブを投げ出したら、クラブはブッシュに入り、ロスト・クラブとなった。
宝塚の隣の西宮CCのグリーンは芝目がきつくて難しかった。グリーンの上から打ってもボールがあがって行くなどといわれて、パットの名手中村寅さんでも手こずったとの話であった。烏が出没して、ニューボールだけ選んで攫っていった。声を張り上げて烏を追い払ったものだ。雲仙も烏で有名。
まだまだゴルフ場の思い出は尽きない。