(漢文 白文帳) 孟子(惻隠の心)
(5組 山崎坦)
私共が受験した昭和11年(1936年)の一橋大予科の入学試験科目には国語、漢文、作文があり、作文は毛筆で、文語体で認めねばならず、筆跡も採点の対象とするとあった。
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中学校では教科書の漢文を和綴じの帳面に毛筆で筆写した。原本には返り点がついているのだが、写すときはその返り点を除き白文帳と言った。読むときは、白文でも、返り点つきの通りに読まなければならなかった。
欧州の高等教育を受けた人は、ラテン語やギリシャ語が読めるということに似ていた。
わけのわからぬことばを、ちんぷんかんぷん(?漢文)というけれど、シェークスピアではIt’s all Greek to me.
といっている。
漢文では漢詩や四書五経から色々な言葉が思い起こされるが、思い出すままに記してゆきたい。
同期の友人達で次の句を知らない人はいない。
無怵惕惻隠之心非人也。(じゅってき そくいんの心なきは 人に非ざるなり。)
人皆有不忍人章 孟子
「吃驚して痛ましく感ずる心がないとすればそれは人ではない。」という意味ですが。
その前段に 「こども が井戸に落ちようとしているのを見たら びっくりして 痛ましく感じて あわてて駆け寄って 救うだろう。これは何も 救うことによって こどもの父母と交際を結ぼうという下心があってではない。郷党の朋友から名誉を得ようというわけでもない。助けなかったという悪名を取るのが嫌なわけでもない。」と書かれており、要するに
アプリオリに人間の性は善であるというわけです。
現在の世相を見ると 考えさせられますね。 人にあらざるものがいる。動物、けもの、悪魔がいる。
一方 神の様な人、天使のような人もいるんだけれど、マジョリティーはどうなのだろうか。
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良心ということを言わなくなりましたね。「良心」を辞書で引くと、「道徳的な善悪をわきまえ区別し、正しく行動しようとする心の働き。」
良心的 「良心に忠実であるさま。いい加減には済まさず、自分の心に納得できるまで誠実に徹して物事を行う態度」とあります。
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バブルの頃、良心的ということが 欠けていたのだと思います。
不良債権などは、私共現役の時代には、ありえない事でした。
企業には審査部とか検査部があって、取引相手企業が、支払い(返済)が可能かどうか見極めが出来ないで、仕事を運ぶなどは考えられませんでした。まして、信用が最も大切な銀行が不良債権を作ってしまうなどとは信じられない話でした。
土地を担保としてとってあるから、というのは本末転倒で、まして後に土地価額で債権をカバーできなくなるなどはもってのほかでした。土地価額が際限なく値上がりしてゆくと予想することなどは、全くいい加減なはなしで、納得できてした仕事ではないと思います。
極めて多くの企業が失敗し、倒産したり吸収合併されて消えていった。shameだと思う。
しかもその失敗の尻拭いを国(国民の税金)にたより、国民の犠牲(ゼロ金利)によって穴埋めするなど、話にならない。挽回のために行った公共事業、そのための公債発行と、国債残高は膨大となり、何時までも国民の負担となって
、更に国民に犠牲を要求することとなる。
失敗を恐れないで仕事をせよ、というのはレベル以上のもののいうことで、失敗が目に見えているのに、断行するなどはもってのほかであり、安易にこの言葉が言われていると思う。
山本五十六が、負けるのが解っていて、太平洋戦争に突入してしまったことを思い出す。
現在株価はどんどん上伸している、IT関連企業が株式公開すれば、株価が上がってゆく。
簡単に納得できる話ではない。企業の実績とさして関係なく、配当も関係薄く、思惑(見越し)で、
L社の株は@700円以上にもなったのが、今は@80円程だという。
株式というものの本質は何か。あてものではありませんか。今の株価はバブルではありませんか。
経済学にゲーム理論というものがあるらしい。(これでノーベル経済賞を貰ったのではないか。)
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From: Edward ChangSent: Friday, February 10, 2006ご無沙汰いたしましたが、お元気ですか。 トロントは異常な暖冬で、庭木が季節の反応を取り違えやしないかと、心配しております。
善福寺池に白鳥が到来して賑わっている写真、楽しく拝見しました。
(Click)
日頃人影の少ないこのような名勝の地が、東京都内の何処かにまだ残っているとは、意外且つ嬉しいことです。 戦前の杉並区の美しさを思い浮かべます。
孟子を引用して、戦前の教育が性善の学説に基づくと言われたのは達見です。
毛沢東の文化大革命で徹底的に排撃された儒教の研究が、今の中国で再び関心を呼んで居ると聞きました。
不幸ながら、大陸での近代化はアヘン戦争以来160年、数々の革命と動乱を経過した今でも未だ一進一退の状態を繰り返しています。
それに比べれば、日本は明治元年から戦前まで僅か70年で近代化の目的を達成し、
その間社会の安定が持続したのは、教育の然らしめるところだと思います。
中国の近代化が火山の噴火で溶岩が海に流れ込むにも等しい激烈、且つ不規則な現象だとすれば、日本の近代化は高山の積雪が絶え間なく溶けて川を作り海にはいる様なものだといえます。
日本の成功は激しい「脱亜入欧」の過程において旧来の価値観を見捨てず、寧ろそれを精神の支えに したことにあります。
多少時代遅れの見解かも知 れないが、明治の30年代に頒布された「教育に関する勅語」は、伝統の道徳律を軽々しく放棄するな という勧告だと言えましょう。
「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、、、」という 言葉は、戦前の誰もが疑わなかった倫理の根本でした。
しかしそれは膨大な国土を殆ど無償で手に入れて近代化したアメリカ人には理解しがたい道理かもしれません。
お体をご大切に。 ED