(Click)ボッティチエルリの描いた女性の理想像 |
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「マーキュリーの恋人」
「後輩の声」で貴重な戦前の講義「三浦新七先生講義録・文明史」増田四郎教授ノートを提供してくださった
中路信君(S32)は如水会ネット最古のML・ツバイ会のメンバーである。
ツバイ会・綺羅星のごときメンバーの中に、丸紅の専務だった豊田君がおられる。
私はかねがね丸紅所蔵の名画を見たいと切望していた。
「美しきシモネッタの肖像」
中路君を通して豊田君にお願いしたところ、即、快諾を頂き、直近で日取りを決めていただいた。
2003・09・03(水)3:00PM (34℃+の猛暑の日・夕刻国会議事堂に雷が落ちた。)
役員室の秘書の助川さんに迎えられ、丸紅経済研究所の杉浦勉所長に案内されて、シモネッタの部屋に入った。
○その肖像画はURL: http://www.marubeni.co.jp/gallery/gallery01.htmlでご覧頂きたい。
MARUBENI WEB SITE〜丸紅アートギャラリー〜絵画コレクションと辿り、小さい絵をクリックすると大きくなる。
十二月クラブ・トップページの項目「マーキュリー」でご紹介しているので、もう一度ご覧下さい。
マーキュリーの紹介はボッティチェリー画「プリマべーラ」(春)の左端に描かれているマーキュリー。
マーキュリーのモデルがジュリアーノ・デ・メディチ、(ロレンツォ・デ・メディチ・イル・マニフィコ(豪華王)の弟)
であり、右端のフローラ(花の女神)のモデルがシモネッタ・ヴェスプッチである。
シモネッタはあのアメリゴ・ヴェスプッチ(1454〜1512)の従兄弟マルコ・ヴェスプッチの夫人。
結婚前の名はシモネッタ・カッターネオといった。
このあたりから杉浦さんの書かれたパンフレットからの引用になるのだが、
前出のMARUBENI WEB SITEからは杉浦さんの書かれた、卓越した経済論文の数々を拝見できる。
シモネッタの話はロマンチックだから、暫く引用のお許しを願う。
シモネッタは1454年ジェノバの港町ポルト・べーネレに富商の娘として生まれた。
ポルト・べーネレとは「ビーナスの港」の意。
イタリヤの伝説によると、波間の白い泡から生まれた愛の美神ヴィーナスは、
ある春の日、大きな帆立貝に乗って、輝くような裸身を波の上に現わした。
この美神が最初に漂着したのがシモネッタが生まれたポルト・ヴェーネレであった。
ボッティチエルリは名画「ヴィーナスの誕生」を描いている。
もちろんモデルはシモネッタ。
ラ・ベッラ(美しき)・シモネッタ と イル・ベル(美男)・ジューリオと呼ばれる似合いの二人がはじめて出会ったのは、兄ロレンツォと父ピエロが最晩年に催した騎馬試合(ラ・ジオストラ)の時だった。
それから1475年ロレンツォの治世下大騎馬試合が催された。
ロレンツォの恋人で後の夫人になるルクレチア・ドナーティが「女王」に、
シモネッタが「美の女王」に選ばれた。
ジュリアーノは
8000フローリンもする銀の甲冑を着、ヴェロッキオのデザインになる兜と楯という出で立ちで試合に臨んだ。
優勝したジュリアーノに「美の女王」の白い手により冠が授けられた。
かくして、ジュリアーノとシモネッタの恋が始まった。
ジュリアーノがシモネッタに抱いた感情はダンテがベアトリーチェに捧げたような、
理想の女性への清純な愛であった。
1476年シモネッタは肺結核で22歳の若い生涯を閉じた。
シモネッタの義父ピエロ・ヴェスプッチは彼女の死後その形見のドレスをジュリアーノに贈った。
ジュリアーノも後を追うように2年後の1478年に死んだ。25歳であった。
4月26日フィレンツエ大聖堂でミサの最中に対立するパッツイ家の決起に、剣の立つジュリアーノは戦って倒された。兄、豪華王ロレンツォは聖具室に逃げ込んで助かった。
ロレンツォは詩人でもあった。
塩野七生氏が紹介している。ロレンツォの「バッカスの歌」はまさに「ゴンドラ」の歌のヒントである。と。
いのち短し 恋せよ乙女
紅きくちびる あせぬまに
熱き血潮の さめぬまに
明日の月日は ないものを
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以上のような感動を頂きました。ありがとうございました。
(5組 山崎 坦)
左よりツバイ会木村剛君、山崎、ツバイ会中路信君
於 丸紅ロビー(山崎の孫撮影)