通算165才の夫婦 1組 倉垣 修

 

 お蔭様で二人とも元気でくらしている。この幸運を、償うため一生懸命に、人々のために役立たんとしている。しかし果して人々のお役に立っているのか甚々疑問である。

 昨年4月、一橋大出身の民社党代議士候補の片山みつよ女史のため、西荻駅で応援演説のマイクを握り、2000円札発行の大蔵省の虚偽、いつわりの政策を攻撃した。片山みつよ女史は行政府の会計を民間会社式の発生主義にする事であった。全く大賛成である。しかし深夜フト目覚めると、平静に呼吸している己に気付き、生きている事はいきする事であると思いあたる。そして今日1日を夫婦共に優しく生活しようと思う。ながいきが一番の幸福であり、人生のよろこびは、これにまさるものはない。世間の富貴はつくられたもので塵網にすぎぬ。

 早朝の歩行の時、萌黄色の若葉の中で鴬の声を聞く。毎日少し宛上手になっている。楽譜がある訳でも、仲間のお手本がある訳でもない。この自然の規則が万物に及んでいる事にがく然とせざるを得ない。草木も花が先きで葉は後である。いくら文明が発達したからと云っても、自然の原理を無視する事は出来ない。人類発生以来の己の先祖の歴史は分る筈もない。

 私は、69才の時、胃癌で胃を切除し、身体の大切な機能を一つなくした。旅行も食物がかわるため苦しく行きたくない。考えあぐねた末に、手術をして救ってくれた慶応大学医学部に、献体し医学生の解剖実習に役立ちたいと考えた。心と肉体につねに配慮するようになったのは、このお蔭である。この事は諸氏にも充分すゝめる価値があると考えている。

 しかし、昔時忘れ難く一橋大学聴講生として、火曜日、金曜日に国立に通っている。教授、研究員の数は500人をこえて、昔ながらの伝統と最先端の思想を誇っている。ひるの食事は、80才の女房がつくってくれる。将に愛妻弁当である。これもおすゝめしたいものである。日曜日は、万歩計主体のゴルフにはげんでいる。クラブは、最新のゼクシオに全部取換えた。老人程、流行の新しいものを持つべきである。老子の教えの通り、やりすぎは、生活の裏と表のバランスを崩すために心を戒めねばならない。ホールインワンで散財するのも、このつきを落すためである。人々は、空、無 は何んの意味もないと考えるであろうが、壺は空でないと成立しない。人は初めに成功しても、必ず終りに事をやぶる。有終の美は少い理はこゝにある。

 胃のない事以外は、ゴルフクラブ同様に五体健全であるが、終りの日まで、二本の足を動して道を歩ける事を祈っている。そして、昭和16年12月に大戦により繰上げ卒業した数少いエリート達の幸福と冥福を祈りこの拙文を終りたい。