1組 三嶽恭二 |
いつの間にか年をとって80才を超え、いわゆる翁の域に入ってしまった。自分自身が若かったときは、80才を超えた老人などを目にすると、まるで別世界の人のような感じを持ったものであるが、自身が老境に入って了うと、意外とそのような意識は薄いように思われる。社会全体が高齢化社会に入ったせいか、あるいは自分自身についての自覚が稀薄なせいかその辺はよく判らない。 簡単に云えば、老いは生命力の低下または衰えであるから歓迎される点は何もない。むしろ嫌忌されるばかりであろう。仙崖和尚の「シワがよる、ホクロができる、腰はまがる、頭は禿げる、ヒゲ白うなる、耳はきこえず、目はうとくなる」や、横井也有の「手はふるう足はよろける歯は抜ける耳はきこえず目はうとくなる」は、老いについての今も昔も変らない端的な表現であるとともに赤裸々な歎きであろう。 ところで老境に対し類似かつ対照的イメージの一つに枯淡という言葉がある。人柄や作品について、俗っぽさや欲気がなく、あっさりとしている中に深い味わいを意味し感じさせる言葉であるが、老境という苦に満ちた世界に果して墨絵のような枯淡という救いを簡単に期待できるのであろうか。 一般に老境に入れば、肉体の衰えとともに、心の面の働きも衰えてくるものであるから、加齢ととともに人間らしい欲望も弱まり、いわゆる枯れるというような地味な美しさが現れてきても当然とも思われる。しかし現実は必ずしもそうではないようである。むしろ生の終末や限界を目前にして、未練を捨て切れない欲望が一層集中的に刺戟され暴発することもあろう。四弘誓願の一つの「煩悩無尽誓願断」は、一方で決意の堅さを示すとともに他方で欲望の激しさを裏書きしているのであろう。 こんな風に見てくると老いは苦であり醜であり、明るさや喜びと全く無縁の世界ということになって了う。しかしちょっと角度を変えて静かに徐々に観察をして見ると、平凡な日常瑣末事の中にも、おやと驚くような新鮮な印象を発見し喜びを感ずることもある。自然界だけでなく、人間界や一般社会関係についても同じである。若いときには判らなかった人生の機微の発見、永い人生経験に裏打ちされた智慧の導きによって開かれる扉等まさに老いの苦を忘れさせるものがあろう。そのときの喜びは静かな中にも滋味溢れるものであり、眞の生の喜びに通ずるものがあろう。 現代の日本は余りにも物質中心の社会となり文字通り煩悩熾盛の世界と云ってよいであろう。煩悩は一面人間社会の根源的エネルギーに通ずるものであるから単純に否定し去ることはできない。もちろん野放しも許されない。煩悩に振り回されることなく、これをコントロールして善用することが肝要であろう。その際、最も必要なのは抑止力としての智慧であろう。老人が時代の風潮に流されず、エゴに走らず、自らを虚しくしたとき、その頭上に智慧が訪れて来るのではなかろうか。 |