2組 久野瑞穂 |
私が第一次モロタイ島斬込隊長として選抜されていたとは誰も信じまい。適任者であったかどうかは別として、特別工作隊の訓練を受けたことは事実であり、戦場という限られた條件のもとで、図らずも斬込隊長を下命されても特に意外にも思われなかった。以下5年にわたる軍隊生活の中で斬込隊の編成に至るまでの経緯と感想を述べてみたい。 (1)私の部隊は北支の鄲城に駐屯していたが、歩兵第212連隊第4中隊(部隊通称号は楓4256部隊、語呂合わせで「死に頃部隊死中隊」と呼ばれていた)が近いうちに移動するという噂が流れていた。昭和19年も明けて未だ正月気分の残っていた頃はっきりとはしないが、次第に新戦場へ向かっていると思われる動きが見え始めて来た。その一例であるが特別工作隊訓練のため上海出張を命ぜられた。古戦場として当時有名であった上海競馬場に各地の青年将校が集められ、爆薬の取扱い、鉄條網の破壊・対戦車戦等の教育を受けた。数日の訓練を終り、南京まで戻った時に中隊から電報が入り、「大異動が始まった、既に本隊は駐屯地を離れている。貴官は帰隊に及ばず、上海で合流されたし」との連絡であった。あまりにも急な移動であったから、ぐずぐずしていると戦地で迷子になるところであった。 上海で本隊に復帰したが、今度は大本営の指令がままならず、輸送船の配船がおくれて約1ケ月間、上海郊外に足どめとなり、江湾・呉淞に分散して待機することとなった。出港がおくれるだけ海上の危険は増加する、それが又配船をおくらせるという悪循環を呼ぶというのが当時の実情であった。 (2)昭和19年4月17日いよいよ呉淞桟橋より出港し、揚子江を下って、翌朝舟山列島に集結した。泊地で青島から来た部隊と合流し、竹号兵団を編成した。護衛艦を含めて29隻を数えられる大船団を組んだ。ニュースについては完全に管制されていたが、僅かにインパール戦線が危いという情報が流れた。又船員からバシー海峡とセレベス海は潜水艦の出没がはげしく一番の難所であるとも教えられていた。 4月27日早朝4時頃船団の左側後方で大爆発が起った。雷撃だ。まっ暗な海上に大きな火柱が立ち、瞬時に火に包まれて轟沈した。それは最後尾の輸送船で第一吉田丸といった。7000トン級で、乗員約3500名、うち210連隊長以下2650名が戦死、軍旗も行方不明になり、師団は大きな打撃を蒙った。その日のうちにマニラ湾に逃げ込んだ。 3日後このまま出港がおくれるとますます危険が増すだろうと云う情報で、5月1日南方に向け再転進を図った。フィリッピンの島々の間をぬうようにして通り、5月6日セレベス海に出た。白昼正午を僅かに過ぎたとき四列に並んだ船団の一番右側に対して突如1隻又1隻と順次都合3隻が雷撃を受け多いものでは1隻に3発も命中しすべて轟沈した。 船団は順列とは別に、各船まちまちに夫々フルスピードで分散退避した。護衛艦も一時退避してから暫くして救助作業に戻るという風であった。 ともかくその日はメナドの裏側の漁港に逃げこんだ。翌朝は殆ど裸に近い姿の遭難兵が、駆逐艦の甲板いっぱいに横たわったまゝ輸送船に横づけされた。兵力の損失は文字通り莫大であったが、それよりも銃器をもたず、よれよれのシャツをきて、鱶よけの赤ふんどしをまとった兵士をみると、瞬間これが現役の皇軍かと情なくなるような心境でした。暫くは戦意も喪失した状態です。5月9日漸くハルマヘラ島ワシレ湾に着き直ちに上陸した。当初はニューギニアまで行く予定であったらしいが、既に連合軍がニューギニア西部のマノクワリ附近まで迫ってきており、逆に吾々の船団の損害は物心共に甚大であり、これ以上の南進は事実上中止せざるを得なくなったようである。 (3)9月15日連合軍がモロタイ島に上陸した。モロタイ島はワシレ湾口にある略々1里四方の小島で、連合軍は上陸後直ちに飛行場をつくり、吾が軍の基地ののど元を抑えこんだ形で、5万と云われた部隊の蠢動を監視していた。この頃から吾が軍のモロタイ戦略が始まった。敵の上陸当初は、日本軍からの航空隊による夜間爆撃が続けられた。ハルマヘラからも僅かに遠望できたが、米軍の弾幕という量的な防禦の網にかかり、相手にされなかったようだ。 9月18日早朝に大隊本部に呼び出され、久野小隊(兵員約40名)はモロタイ斬込隊となるため、舟艇の到着次第ハテタバコ(連隊本部所在地)に向けて出発せよという命令があった。直ちに準備を整えて大発の到着を待った。午後になっても舟艇の姿が見えず、不安のうちにドロサゴ海岸に待機していた。かりにジャグルの山越えで行くことになると一週間を要することゝなったろう。 (4)しかしその間にも事態は急変した。ハルマヘラ島根拠地部隊は、広く分散して警備していた。連合軍は上陸部隊を構えて、強力な航空戦力、魚雷艇に常時見張らせ、楓部隊の実力と防禦力の厚みに比べて格段の差があると認めれば、いつ何時襲撃してくるかもしれないという風に判断される状況であった。 吾が軍は警備態勢の不備を補い、逆上陸を含む攻撃面の強化を図る必要に迫られ、司令部の直轄部隊を強化することとなった。その結果として東部防衛戦から第一大隊(第4中隊を含む)が直轄部隊として急遽、移駐することとなった。 久野小隊の斬込隊の任務は親中隊が引継ぐこととなり、移駐部隊の警備地域であった80粁に及ぶ海岸線の警備と移駐部隊の残した弾薬・医薬品・糧秣等を保管管理することを任された。 なお第一次の斬込隊は9月26日楓部隊の第12中隊の126名によって実行された。この上陸に参加した阿部少尉は、当初私が斬込隊長を命じられたとき、同時に斬込隊長を発令されたものである。彼は戦後生還したが、中隊長以下多数の戦死者が出たと聞いている。なお、斬込隊と云われた逆上陸部隊の突入回数は11次にも及びました。 (5)軍隊は運隊とも云われました。 私が斬込隊長という生死を分つかもしれない使命を与えられたときに、命令以外には通用しないはずの戦場で、思いがけなく無事に危機を切りぬけて来られたのは、ただ運がよかったとしか言いようがありません。 |