2組 岡口保子 |
リビングルームに可成りのインパクトの在るシルクスクリーンを飾って二年が経ちます。或る絵画展で名も知らなかった画家の新作<白馬>がそれで、東洋女性が凛として然も仲々の雰囲気で手綱を取って駈けている構図。斯くも気に入る絵に出合うなど滅多にあるものではないので迷わず即決で買いました。サイン会に居合わせた作者の丁紹光氏に裏書きもして頂きました。私の予感通り、チラチラと眺めているだけで青春のパワーが湧いて来て今のシングルライフに思わぬ彩りをそえてくれます。 私が学生時代から今も何となく覚えている言葉。<もし灰色が灰色をもって描くならば、その時生命の形態は年老いぬ。灰色は自らを若返らせず、自らを認識するのみである。ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏と共に飛びはじめる。> 今この心境で私の<人生その三>は静かに進行して居ります。 そこで<人生その一>を紹介させて頂くと1930年生れ、家は代々ご典医で一族にはドクターが多く、両親も大阪梅田の近くで開業して居り三人の子供は健康の為、空気の良い芦屋の自宅にて母の意志で住み込み家庭教師付きで数人の女中、書生、下男など大人達に囲まれて贅沢に育てられました。母は明治の女傑だと今も尊敬して居りますが結婚後父を説得して東京女子医専を優等で卒業し、当時としては立派な社会事業を次次と成し遂げた偉い女でした。 戦争が激化すると自由思想の父はイライラして「アメリカを相手にするのは双葉山と小学生の相撲だよ」と大声で話すので「何て非国民な父」と恥かしくなる位に私はどっぷりと軍国主義教育の中で国策に沿った模範的小国民に成長して居たのです。女学校三年の九月に学徒動員し尼崎の住友金属でプロペラのボスを組立てる重要な作業で、神風の鉢巻をしめて残業を希望し、骨身惜しまず働きました。 この敷地内は百以上の工場がありましたが、空襲の度びに破壊され、末期には残っていた病身のような事務の青年も出征し、「海ゆかば」を歌って送り出すのは年配者と学徒ばかりになりました。終戦の玉音放送は15才で聞きました。高校生の兄が「平和が来るのだ!」と叫び私達は水着姿になり近くの打出の浜へ走りました。 もうグラマン機の機銃掃射を恐れることのない空っぽの青空を見上げ太陽の照り返す砂浜で存分の開放感に浸りながら平和を実感した弾んだ気分の海水浴は、今も楽しく想い出します。その夜は久々に防空用カーテン類を取りのぞきシャンデリアを明々とつけた洋間でクラシックのレコードを聞き兄も月光の曲をピアノで弾き、訳もなく笑い顔になる一家団らんの輝いた一夜でした。 やがて進駐軍が来ると大変な事になるデマが飛び、お嫁入り前の姉のお供を私までして田舎に1ケ月半も滞在させられたのです。勉強が出来ない環境に置かれるとお腹がすいた以上苦しく勉強したくて焦り、学部などどこでも問題ではなく知識欲だけで上級学校に進学する事ばかり考えて居りました。 明けて21年のお正月すぎ母が風邪から肺炎になり、アメリカには夢の新薬ペニシリンがあると言うのですが間に合わず急逝しました。当時弊原首相でさへ肺炎でマッカーサー元帥からペニシリンをプレゼントされ一命を取りとめ大事な調印が出来た話をあとで知りました。 私は父のすすめで通学の便のよい神戸女子薬専に運よく四年生から入学出来ました。房の付いた角帽の制服で向学心は満たされましたが戦後初めての受験のため年上の方ばかりで私の如き基礎知識の乏しい者には難かしすぎる授業で毎日苦労でした。その頃銀行預金はすべて封鎖され新円切り換になり、金貨が瓦の価値になるインフレを知りました。母が常々「お兄ちゃんは一生お金の心配しないで良い学者になって頂戴」と言っておりましたが、とんでもない一定の生活費と学校の授業料を引き出すのが精々だったようです。色々の理由で退学生や留年生が多く出ましたが私は必死で卒業にこぎつけましたのに又又卒業間際に厚生省からいきなり第一回薬剤師国家試験を実施する通達があり、教授達の方が青くなられましたが連日補習授業の甲斐あって95.5%で私立全国一位の合格率で、同窓会では未だに粒の揃った学年と言われております。 贅沢に慣れた父が急に財産がなくなったショックもありお酒の量も増え脳溢血で倒れ私達は姉の夫が大阪の診療所を継いで後見人になって下さったので楽しく新劇や音楽会や絵画教室、洋裁、帽子作りと夢を追って居りましたが、その時全国一の高いレベルの設備を誇る関西電力病院が創立されたので応募し、運よく薬剤部に就職し、自立した気分で益々時間を有効に過ごすため料理教室や日仏会館に出入りし、ロマンロランの会にも入りあらゆる講演会にも時を惜しんで聴講しました。 京大の理科系で作っている詩の同人誌にも参加し自我に目覚め「新しい女性の生き方」などテーマに<中心での意味><或る角度ある照明は><見つめられた虚数>など現代詩の新聞の隅に出る批評もよく何年かすれば詩集が出せると気力も湧いて順調な新しい女に成長して居りました折も折。私がずっと目標にも思い頼りにもして居りました京大医学部出の兄が自殺し、恵まれ過ぎた資質が災いしたのか日記から判断すると自分の美意識がこの世に適合しないような不可解な謎の多い死でした。そのあと私と同じ年の女医さんが彼だけ旅立たせたくないと後追い自殺され、何が何だか解らないショックから立ち直れずおりました。 そんな時期だったからでしょう。私は兄の先輩と運命的な出合いをし不思議な恋に落ちました。<二つの精神の激突の中の静謐>と題した詩を同人誌にのせた処、詩など読む人口の少い時代なのにずい分反響を頂き書く事の魅力と恐しさを味わいました。 短かい時間でしたが私には一生涯がすぎ去った様に永いものでした。哲学的にも現実的にも斯くも真剣に愛について考えた事はありません。確かな恋は人生の完成であること。形が無くとも存在したものは確かに存在したのです。結論を無理に言えば私はやはり兄と同類で生活者として結びつかない質の恋でした。相手に尽せば自分をスポイルせざるを得ない質だったのです。彼は別れの時「将来結婚するだろうけど僕より程度の悪い奴だけは選ばないでくれ」と申しました。私は彼以上の人に出逢う筈がないから結婚なんかするものか!と思ひ<その一>が終りました。 <不在との対話>が何年も続いたあと、私は東京に行きたいと願望し、三つのつつましい条件を出してお見合相手を探してもらいました。或る日いとこから、条件をクリアするから上京してこいと電話があり、私は伊丹空港から羽田に向いました。樺さんが亡くなった事件の頃の事です。岡口は私が空路飛んで来た事に感動して居りました。一目で磊落で文学や哲学とは無縁な人柄は何よりでした。彼の長女が活発でお茶大附属の中学生の制服のチャンピオンベルトは私の憧れでもあり、ハイラーテンに合意し<人生その二>が面白く始まりました。慈父のように優しい岡口と物解りの良い二人の子供に二人加わり私は天性の楽天家を取りもどし、料理洋裁が役に立ったので結構楽しく過すことが出来ました。 昔12月クラブなど同窓会から上機嫌で帰宅すると両手を展げて千鳥足なのにネバーマインズを連発するのが常でした。或る時「パパそんなに飲み過ぎて料亭で倒れました、なんて事になったら私夜中にかけつけるの?それとも少しはおしゃれして行く方がいいの?」と質問したら「ママは綺麗にしておいで」と申し大笑ひした事を思い出し12月クラブにはおしゃれして伺うよう心掛けて居ります。 ※私16年間自宅にてお菓子と料理教室をして居りましたが100人以上仲々の腕前の方々それぞれ自立して下さいましたので、只今は月6クラスだけ残し、最近昔とった杵柄と申しますか管理薬剤師の仕事をこの年令で始めました。いつまで続くか解りませんが老いの挑戦でございます。 |