私の宝物−魂の込められた仏像写真− 3組 野田勝哉

 

 大分前のことだが大阪の某デパートへ国宝級の仏像の写真展を見に行って、出展者の一人と雑談をかわした時に、面白い話を聞かされた。ここにある仏達は魂を抜かないと写真を撮らせてもらえないということだった。話してくれたのは奈良の飛鳥園といふ古寺の仏像写真では明治時代から有名な老舗の主人で、「飛鳥園撮影」と記された写真は数多くの画集、絵はがきにのっている。他の有名プロの撮った写真も同じことの様だ。入江泰吉、土門 拳等のプロの写真集の解説にも後書にも「私の写真の仏達は魂が抜かれている」などとは書かれていないが。

 これがどういうことなのか判らないまま放っておいたら西村公朝といふ方が講演で、仏の魂を抜くといふことに触れられ、その著書にも当って次のことが判った。(西村さんは大仏師で幾多の有名な仏像の大修理を手がけられた方で、又、京都愛宕念仏寺の住職でもあります。)以下簡単に紹介します。

 仏像は完成すると祭壇に安置され開眼式が行われる。之が御魂入れの儀式で、これによって仏像は本来の仏像になる。魂を抜くのは撥遺式といって、仏像の修理、調査の為、釘を抜いたり打ったり、鑿を当てたり、直接手を触れたり、移動させたりする時行ふ。儀式は僧侶の手で行われ、例えば「この修理の間御魂は本宮へお帰り下さい。終ったら必ず勧請し開眼式を行います。その後は今迄以上の御利益を私達にお与え下さい」と誓いの言葉を唱え、更に呪文を唱えて御魂を空中に散らす。云々。大掛りな器材を使い仏像に手も触れる写真撮影の場合については特にふれられていないが、魂を抜くべき作業の一つだと寺側が考えるのは当然だらう。

 私は30年近く大阪にいて足場も良いので、奈良、京都、宇治等の古寺に仏達をたづねて頻々と足を運んだものである。之等の由緒ある仏達は夫々の歴史を背負っておられ、姿型も様々で、顔立ち表情も或は威厳に満ち、恐ろしく、ツンとすまし、優しく、アルカイックスマイルを浮べるなどまさに多面である。いずれも美術的一級品であることは勿論だが、何よりも信仰の対象であり大きな願い事を托されている。国家鎮護、村落、氏族の守護繁栄、或は庶民の心の苦しみを和らげ、生きる喜びを与え、病気の平癒を願ふ等々その期待される内容は様々だが、仏たちは悟りを裏付けされた強固な魂なしではそれらの付託にこたえられない。

画家は人物を描く時はその人物の内面、心を如何に表現するかに苦心するといはれるが、魂なき仏像を写さざるを得ないプロの写真家とは一体何なんだらう。私は古寺巡礼に当っては極力カメラを持参して使う様にしてきた。初めは巡礼の単なる記録としてメモ代りにしていたが、飛鳥園の当主の話を聞き、西方氏の本を読んでからは、「本当の魂の込もった仏像を写すのだ」と強く意識して写真を撮る様になった。撮影の条件はプロと違って甚だ悪い。堂内は薄暗くて光が足りないのに加えてストロボは使えないし、三脚も堂々と立てられず、スローシャッターを切る為手振れのリスクが高い。「写真禁止」の立札が大きく出されており、監視人も巡回してくるので落付いて撮影に専念出来る環境には程遠い。時々は家内を連れ出して監視人を監視して近付いたら知らせて貰ふ様な役をさせ、しかも良いポジションを探して時間をかけるので評判はすこぶる悪く、カメラ持参の古寺行きにはもう同行しないと宣告される始末。こんな悪条件のもとで撮った写真は技術的に見て不充分な点があるのは仕方がないが、如何にうまく写っていても大切な魂の抜かれているプロの写真とは全く異質なもので何物にも替え難い物だと信じている。

 最近までは年に2回位は奈良、京都等の古寺をたずねて、土地の旨いものを食べる会があってカメラ持参で楽しんできたが、メンバーが高齢になり、会の継続が難しくなってきた。撮影の条件も昔より格段に悪くなり、仏たちに近付けさせないとか、公開日を限定するとか、ガードマンを張りつけて見張るとか、アマが仏像写真を撮るのは一段と困難になってきた。

 これからは今迄撮り貯めた写真を大切に宝物扱いして、その時々に之を引張り出して古寺巡礼に代えたいと思っている。