3組 柴沼庄左衛門 |
17年4月卒業が、16年12月卒業になり12月1日には兵隊検査が行はれた。春の陸上競技合宿が行はれ、静岡にゆき帰宅すると肛門周辺が腫れて痛い 早速上京し病院に入ると直ぐ手術された。手術は終っても場所が悪いので仲々直らない。兵隊検査で「お前は体はよいが、軍隊で痔は駄目だ」と第2乙種になった。12月8日米英に対し戦いを宣すとこれは戦死するなと感じたが、ハワイ奇襲で勝ちマレー沖でも勝つて、どうなることかと井藤先生を訪ねると「始めは勝ててもまあ勝てないから無理するな」と注意された。 大日本麦酒に入らうと思ったが一流大学卒は採用出来ないと。困っていると三井信託を受けた友達は、身体検査で不合格となったと、どうせ軍隊にゆく迄と受験するとすぐ採用になった。信託では計理部に勤務していたが、その中「敵産管理調査」の為、南方要員募集の話があった。寒い北国にゆくよりシンガポールに憧れていたので応募すると採用された。 而も総括責任者が大先輩の中山素平さんであってこれも幸運と喜んだ。当時「昭南島」と云はれ、始めて上陸すると一橋寮の先輩で親しくしていた 石川善次郎兄に出逢った。 国際電電の秋草先輩と同居しているからその内連絡するから来いよと云はれた。誰れも知らぬ土地で知人に逢ふ程有難いことはない。 「レコードコンサート」やるから来いよと云はれたのはそれから間もなくであった。東京商大受験後 始めて「未完成交響曲」を聴きこんな素晴しいものがあるのかとすぐ洋楽ファンになっていた私を石川先輩はよく知っていた。 当夜にゆくと日本女性も来ていて、私の隣りに未知の女性が座っていた。数曲聴いてから“何がお好ですか”と尋ねると「浪曲節」ですと云ふ。後で聞いた話では、そう云っておけば洋楽はよく分らないと、もう聞くことはないだらうと答えたと云ふ。顔・身体の印象や、何を聴いたか忘れたが、この問答はよく覚えている。もう一つ、盲腸で入院した時、花束をもって、見舞に来てくれた。女性より花等貰ったことがないので印象に残っている。人生と出逢いは分らぬものである。あとで色々話す機会があったら、日本女子大を出て、現地の人々に「日本語」を教へる先生をしているとか、あまり恋愛的感情はなかったが、個性的でリーダーシップのある女性とは感ぜられた。 或る日銀座資生堂の様な「G.H」カフエに友人とコーヒーを飲んでいると、印度人でタゴールの様な占い師が入って来て「貴君の好きな数字を書いて伏せて下さいその数字が当らなかったら金はいりせん」と云ふ。書いて手にもっているとズバリ当てられた。「貴殿はよい人だが 貴殿の奥さんはもっとよい人と他人に云はれます」未だ決っていないのに何を云ふかと思ったが「貴殿は今恵まれているが1945年(昭和20年)8月になるとドン底に落ちるが漸次よくなるからゆっくりやりなさい」と将に敗戦の予見である。 敵産管理が終り 中山先輩にお願いして大日本麦酒のクアラルンプール工場長に採用された。工場長とは云っても日本人技術者一人だけで清涼飲料水を軍に供給していた。予言通り敗戦となり、俘虜収容所に入ることになり、女中(アマ)2人にどうせ持ってゆけないから、全部あげると云ふと翌日トラックが来て家具什器をみんなもって行った。“有難う”の一言だけで。然し入所して2日目から監視がいるのにバナナを沢山毎日持って来てくれて同室の連中が驚いた。事情を説明すると俺もそうすればよかったと。クアラルンプールを離れる前日には薬と英国紙幣まで呉れた。涙が出る程有難く、中国人の義理堅さを改めて感じた。 武器、自動車は前に没収されており、大八車とリュック一つでシンガポールへ行けと命ぜられた。 何日かかつたか歩いて、若い時陸上競技もしていたので、先頭切って昭南島ジュロンに着くと婦人代表で渡辺ヒロノ(後に家内)等が迎えてくれた。収容所に入って程なく 「東京商大の者」は集まれと。何事かと思って所長室に入れば、元の英国人先生で、“英語で自己紹介せよ”と。終って「あまり上達しないな」と日本語で笑はれて大御馳走になった。今迄塩か梅干のオニギリくらいしか食べられなかった者にとっては東京商大の有難みがしみじみした。その中アメリカ軍の食糧が配給になり、体力も回復して来た。 昭和21年2月出発と同じ宇品港に帰国した。幸い土浦工場と居宅は戦災をうけなかったが5千石あった諸味は桶壱本の参拾石になり5千石の出荷は年間参百六拾石で、これが無くなれば柴沼醤油も終りだと話し合っていたとか。昭和拾参年以来満州より大豆が入らなくなり、小麦は食料になり僅かに皮のフスマのみが配給されていた。これでモロミは減少し、帰国した頃はドン底であった、加えて農地解放と新円切換があり、百町歩は自作地以外壱町歩のみで、反当り参百円で解放され、百萬円あった予金も一人当り平均に壱萬貮千円になった。将に新規巻き返しであり、更に富裕税で土浦税務署最高の百萬円が課せられ到底支払へる額ではないので最大限延納してもらった。マイナスよりの出発である。 収入がないので大日本麦酒に続いて勤務することにしたが通勤電車が混んで通勤不可能となり、東京で知合いも無いのでヒロノの住宅が麻布にあることを想い出し広尾にお伺いして下宿を頼むと簡単に許可され「二階が空いています」と、許可してくれた。ヒロノは21年3月に帰国して来た。こうゆう経過でこの女性と結婚の決意をする。私も大日本麦酒より酒類配給公団渉外室勤務になり11月3日上野精養軒に結婚式をあげた。サッポロ、キリンの両社長が出席して呉れてビールが沢山出て、公団よりは特別吟醸の酒貮拾本を戴いた。 「こんなうまい酒は久し振り、ビールを充分のめたのも有難い」と当事者より酒、ビールが賞められた。ゼミの井藤半彌先生のみは「柴沼君の卒論は人口論であるからよい子供さん達を産んで下さい」と。 2人3脚で56年、幸い長男は一橋大陸上競技を卒業し、目下家業で苦労している。次男も一橋大で、三井物産で小麦関係をやり目下食品業界の総括マネージャーをしている。 長女は東京女子大を出て早稲田大学教授と結婚し、日本語を教えている。次女はお茶の水大を出て富山県で農業、養鶏をやりコンサルタントもやり県内はもとより県外迄講演に行っている、つまらぬ所で遺伝するものである。 その妻も今年5月29日に亡くなった。 桐一葉落つるが如く 妻逝きぬ 妻逝きて過ぎし 月日や明けやすし 拙句 戒名は「陽廣院明鏡芳慧清大姉」である。 茨城のトップレデーとして活躍し、10年前に「茨城文学賞」を貰った時の嬉しい顔が印象的であった。その「火焔樹」のあと書きに、 「私の様な、我侭で気の強い妻に、今日迄出来得る限りの自由を与え、世間を泳がせて呉れた夫、「柴沼庄左衛門」に「ありがとう」の一言を贈りたいと思います。」と |