公認会計士制度の濫觴期 3組 公認会計士 下田友吉

 

 十二月クラブ会員には現在金原昌夫君作花慶一君と私の三人がいる。この他4組の三好行正君が昭和三十年代に公認会計士試験に合格されたが年余にして病没しておられる。

 公認会計士制度は戦後アメリカから持ち込まれた制度で、試験がむづかしくその上国内企業には制度利用の需要がなかったので、社会的評価が高い割には収入は伴はない職業であった。

 昭和36年に「正規の監査」実施に移行するまでは、法律による強制被監査会社の監査は、「会計制度(経理規定)監査」、次は「五科目監査」という貸借対照表科目中指定された五科目だけを監査するというもので、その他の科目は会社へ行っても見せてもらえなかったというもので、現在では考えられない内容の監査でありました。私は昭和29年の開業で登録番号894番の公認会計士でしたが、この法定監査の依頼も皆無で公認会計士としての仕事にありついている仲間を大へんうらやましく思っていたものでした。

 昭和40年頃山陽特殊鋼株式会社等の大型紛飾事件で公認会計士の監査証明が社会的問題となり、公認会計士の監査の力を強化する必要が求められた。その対策として公認会計士が集って仕事ができ、複数で巨大企業に対抗できるよう監査法人の設立が認められることになった。初めは監査法人に出資できる者(社員となれる公認会計士)は大会社と監査契約を持っている者に限定されるという制限があり私のような監査を持っていない公認会計士は社員になれないというおかしな行政指導があった。私はこのようなおかしな行政指導を外すために当局を動かし、目的を達成し、仲間7人と監査法人第一監査事務所を設立することができました。監査契約を持たない公認会計士で監査法人の社員となった第一号であると自負している。

 私と仲間で作った第一監査事務所は合併を重ねセンチュリー監査法人となり私はその初代会長を勤め、73才で退職をしました。その後センチュリー監査法人は太田昭和監査法人と合併し、一時太田昭和センチュリー監査法人となっていたが、本年(2001年)6月新日本監査法人と改称し、現在日本最大の監査法人となっています。

 公認会計士制度は私達が東京商科大学予科で簿記の手ほどきを受けた岩田巌先生がその基礎作りをされた制度であり、岩田先生の先生であり、我々が本科で会計学の授業を受けた太田哲三先生が制度導入後第一回の試験委員となられ、第二回試験には自ら受験生となられて合格され、その後公認会計士となられ、公認会計士協会々長にもなられ、この制度の発展に大きな足跡を残された。我々は岩田先生に大いに期待していたのですが、この制度の発展を夢見ながら制度開始後間もなく急逝されました。先生の死は全国の公認会計士、特に一橋出身の公認会計士にとって大変悲しい出来事でした。太田先生は当時中央大学の教授であったので中央大学出身者には大へん心強い存在であられました。

(平成13年9月記)