56回目の終戦記念日を迎えて一言 3組 田中林蔵

 

 曩の大戦はわが国にとっては未曽有の大事件であり、絶対に二度とあってはならないことであるということを考えれば、当然のことながら私達日本人の手で、戦争を徹底的に総括し、戦争責任を追究する必要があると思う。処が終戦直後には、新聞各社揃って一億総懺悔と書き立て、戦犯は連合国によって裁かれた為もあってか、私達日本人による総括も反省もなされぬず有耶無耶の侭今日に到っている。毎年終戦記念日近くになると、総理の靖国神社参拝を巡って低次元の遣り取りが繰り返されているのもその為と考えられる。

 折々太平洋戦争で、日本が米国に宣戦を布告するに当って、当時の日本の軍の首脳部が、彼我の戦力に格段の差があることを知らなかったとしたら、誠に無責任な話であり、若し承知の上で戦争を仕掛けたとしたら、言語道断その罪万死に値すると思う。従ってその様な条件の下で犬死同様に命を奪われた人々の心情を察すると、戦争責任者を八つ裂きにしても足りない思いがする。

 戦争犠牲者に対しては従来私達は慰霊碑を建てたり、記念式典を行ったりして来ている。併し乍ら戦争の総括もせず、戦争の責任も明らかにせぬ侭でその様なことをしてどれだけの意味があるのだろうかと疑問に思える。

 この様な観点からすれば、石原都知事の「私が靖国神社に参拝することで戦争犠牲者が喜ぶならいくらでもお参りする」とか、小泉総理の「日本の国民感情として死ねば戦犯も皆仏様になる」と言う言葉は、犠牲者の気持と余りにも大きくかけ離れていると思う。特に私達は子供の頃から、悪人は地獄に落ち、善人は極楽に行けると言われて来たので、犠牲者からすれば「自分達を苦しめた戦犯と一緒に扱われてたまるか」と言う気持であろうと思う。

 要するにこの問題は小手先の理由づけや、姑息な言い訳で誤魔化し通せるものではない。

 尚序ながら、日本の政界、官界では責任という問題が軽視されている様に思える。戦争責任の場合もさること乍ら、ハンセン病問題でも、患者は永年に亘って苦しめられ、国は莫大な補償金を支払う羽目になったにも拘らず、問題の元凶たる厚生省の担当部局は全く責任を問われることはない。

 また開発案件の場合、計画通りの結果が得られず、赤字続きになってもその赤字は国家予算で賄われるので、事業継続に支障を来たすことにはならず、所謂「親父日の丸」、「損のたれ流し」と言う事態になる。それでも犯罪行為がない限りそのプロジェクトの責任者は責任を問われることはない。

 一般によく権限と責任は裏腹と言われポジションに応じて相応の権限が与えられる。このこと自体当然のことであるが、私の経験によれば、権限をほしがる者に権限を与えると権限を振り廻すだけで仕事の実績は挙がらない。そして本当に仕事の出来る人は強烈な責任感を持った者である。現在の停滞している政官界立て直しの為のヒントもこの辺にある様に思える。