朝の想い−見えざる手− 4組 岩波 薫

 

 今日は6月20日、84歳の誕生日。顧みれば1941年12月卒業以来2001年卒業60周年の年、60周年クラブ通信特集号を出すから原稿を早く出せとの葉書に促され、軽くはない筆をとる。

 思えば不思議な縁から1950年〜2000年、50年間つたない求道者の道をたどって来た。信仰生活50年記念の聖書を教会牧師から「勉強し直します」と言って貰うには貰ったが。その間失敗と困難にも耐えてどうやら健康を維持しているのも、そのご縁のおかげと感謝している。その聖書の中の二つ三つ好きな聖句をかかげさせていただいて、近況御知らせの代りとさせていただきたい。

 先づ旧約では伝道の書(コヘレトの書)。これは紀元前300年位前、智恵文書の一つとされているが聖書に記載するかどうか危ぶまれたものらしいが、私にとってはすごい事が書いてあるなと思う。当り前といえば当り前のことだが、その書の第3章に、

天の下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある
生ずるに時あり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり
愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和ぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

 わたしは神が人の子らに与えて、ほねをおらせる仕事をみた。

 神のなされる事は皆その時にかなって美しい。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

 私は知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。

 20世紀は物の時代、少し心を忘れてきたため現状は余り面白くない事が多いように思う。Recrat した、人間再創造が求められバランスをとって行かないと、とんでもない方向に行ってしまう。歴史はくり返すという。私達は一橋に学んだ予科一年の時、上田貞次郎学長が小平村の予科に来て下さり、大きく黒板に書かれた「修身 斉家 治国 平天下」、「身についた学問をしなさい」。文明史の三浦新七学長からは「国土としての経済人」なる言葉をいただいた。この辺りの経済だけでなく文化大学としての一橋大学に学んだ仕合せをかみしめると共に21世紀の根底にしないと砂上楼閣のそしりを免れないのではないか。

 終りに卒業60周年を迎え、長年の友情に感謝すると共に、諸兄のご家族を含め、ご健康を祈るものです。