「徒然草」を読む 4組 鈴木義彦

 

 一般に「徒然草」の特色と云えば、作者兼好法師の中世王朝文化の伝統に寄せる並々ならぬ愛着と、故実有識に対する深い関心、知識にあるとされるが、我が国の代表的古典として今日迄広く読まれていることはご承知のとおりである。これらの愛着や知識は兼好が若くして宮廷社会に仕え、殿上人に接する日常の生活を通して培われたものと云えるであろう。唯もう一つ別の主題として、「死の切迫」或いは「死の自覚」の概念を指摘することが出来ると私は思う。

 私は「徒然草」の魅力に惹かれ、時折通読して来たが、最近本書を繙いたのは改めて兼好の死生観を確かめたかったからである。

 今年に入り、ひと月足らずの間に親しい友を五人も喪い、云い知れぬ無常感にさいなまれて何事も手に付かぬ状態に陥って了った。その苦境から何とか抜け出すことを意図したのであったが、後述のとおり目的を達成することが出来たのは幸いであった。

 以下に関係個所を抜粋して見よう。

(1)「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日をくらす、愚かなる事はなほまさりたるものを」(第四十一段)

(2) 人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり。 (第四十九段)

(3)「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」 (第九十三段)

(4) 若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。(中略)。しづかなる山の奥、無常のかたき、競ひ来たらざらんや。その死にのぞめる事、軍の陣に進めるに同し。(第百三十七段)

(5) 四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遙かなれども、磯より潮の満つるがごとし。(第百五十五段)

 兼好の死生感は突き詰めて云えば、死は何時やってくるか分らない。常に死を意識して、一日一日を生かされている事を喜び、感謝し乍ら「只今の一念」を大切にして決して空しく過ごさない。即ち寸陰愛惜、諸縁放下、心身永閑の境地にいて仏道に精進するという事であろう。私共が及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来らざる事を待ち、貪る事を止めずに日時を空費しているのは最も愚かなことと改めて知らされる。

 親しき友の相次ぐ死に直前して、尚生かされている事の喜び、貴さを実感し、限りある余生をより充実したものとすべく、心機一転して、日々向上の研鑽を重ねて行こうと決意を新たにした。

 「徒然草」は読むほどに新たな味わいが汲み取れ、今後とも人生の指針として座右に置き度い、私にとって貴重な書である。

 今後の私共の身の処し方について参考になると思う第百四十段を終りに死生観とは別であるが兼好は「財」に対する考えを(第百四十段)に述べているので、参考までに付記する。世捨人として当然の考えと思うが諸兄はどうお考えになるであろうか。

 身死して財残る事は、智者のせざるところなり。よき物は、心をとめけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。(中略)後は誰にと心ざす物あらば、生けらんうちにぞ譲るべき。朝夕なくてかなはざらん物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき。

(編註)兼好は俗名、卜部兼好、出家後は俗名をそのまま用いて兼好を法名とした。

    祖父は従四位下右京大夫兼名、父は治部少輔兼顕であり、兼好の兄弟には大僧正慈遍と従五位下民部大輔兼雄がいた。卜部氏は神祇の家である。その宗家は吉田神社の社務職を世襲し、分家は平野神社の社務職を務めて来た。

    兼好は観応元年(1350)4月8日、68歳で没したと(諸寺過去帳)伝えられているので、弘安6年(1283)の出生と考えられていた。しかし、近時、兼好は観応元年以後も生存していたことが立証されるに及んで、没年も生年もともに不明というよりほかなくなった。