6組 大野晴里 |
12月クラブのエネルギーを見届けて、その正体を確かめ様と思った時、写真を見ることにした。そして卒業25周年記念の写真集の頁を丁寧に操って見た。 若い、働き盛りの40才後半、35年前の友とその家族の生き生きとした姿が笑っている。戦争で何もかも失った日本を建て直す気概に溢れた顔がそこにあった。皆の顔が光っている。そして力ずよく語りかけてくる。飽きない楽しさがある。傘寿を迎えた今、既に鬼籍の友も、共に卒業60周年を迎える。 12月クラブの第一回の会合は熱海ではと記憶している。ようやく日本に復興の兆しが見えて、外食で酒が飲める様になった頃であつた。役所や企業の団体ではなく、やがてそれぞれの団体の中枢に為るであろう者どもの団体と見られたのか熱海市が酒などさし入れて歓迎してくれたやに覚えている。 団体で行動するのに名なしでは不便、さりとて甲論乙駁、この時今や大学者の水田洋君が、『未曽有の12月卒だから分り易い12月クラブでは』との事に満場異議なしとなった。考えて見れば12と云う数字は2でも3でも割り切れて、四の五の云う筋はない。世界文明は洋の東西を問わず6進法ではじまった。円周が半径で6等分に、六分儀や時計、カレンダー等6にかかわる物事は辞書や事典をひもとくと多々ある。話が横にそれました。 私の中学校時代には毎年組替えがあったのに、予科では3年間、大学ではゼミで3年間それぞれ同じ顔触れの家族の様なものであった。商大の卒業生は群れたがると云われるけれど、小人数の学校家族の自然体なのかとも思われる。とくに旧制の卒業生は皆、商学士で一本。いまは幾つかの学士に分かれていたとしても、大学の名が一橋では他の大学の卒業生より群れたがるのは当り前の事かなと思う。 同期の卒業とても在学中に顔を合わす機会が一度もなく、名前は名簿で知り得ても顔までは知るよしもない。あの卒業25周年記念写真集こそお互いの距離を狭めてくれた。その功績は極めて大きいと云える。あれから35年の時は流れた。 12月クラブとは一体何なのだろうか、基金を持ち毎年の予算決算、事業計画、更に合同の位牌を浅草寺の五重塔院に安置までしてある。こんな同期会が何処にあるだろうか。そして今や同期の友は80才を越え友の60パーセント程が冥界に去り、会合には会員より準会員と称するその夫人の方が優勢の今、やがては夫人の会となるやも知れぬ。そして続くことと思う。 こんなにまで会を育ててくれたのは云うまでもなく進んで努めてくれた生涯幹事諸君のお蔭に外ならない。有り難く感謝する。 我々は80才プラスとなりましたがフランス語で80を4×20でキヤトルバンと云い、90を4×20+10でキヤトルバンデイスと実にややこしい云い方をします。予科に入学して一番びっくりした事です。会員並に準会員の皆様キヤトルバンデイスを目標に元気に参りましょう。 |