6組 鈴木栄喜 |
三鷹から逗子へ越してから略々50年が経過した。僅か60坪足らずの土地だが、移り住んでからボツボツと植えた木が数えてみたら27種類、40本の成木となっている。 玄関脇には柊(ヒイラギ。古来魔除け用とし玄関に植えられて来た由)が40年以上経って3メートル近くの大木となっている。 亡母が縁起がよいといつもお赤飯に副えてつけた南天(難転に通ずる)は、鬼門とされる南西及び北東に植えて今では繁茂している。昭和35年に樒(シキミ)を植木屋から求め、昭和40年に裏山に生えていた榊2本を移植し、神棚用、仏壇用に供え、花屋から求めることはない。 梅の木は2本あり、1本は花屋に頼んで金沢から取寄せ1本は苗木(当時100円)を求めて植えたのが成長し今では大ざる一杯の実が採れ、家内はそれで梅肉エキスを作り、腹具合が悪い時は小さじ一杯でスッキリする次第。又開花時にはウグイスが二羽若芽をついばんでいるのを眺めるのも一幅の絵画を眺めている心地がする。 三菱商事時代三井の柏ゴルフ場にて OB でボールを見つける為林の中に入ったら、山椒の若木があったので失敬し植えたのが料理添え用に重宝している。 昨年植木屋から柚子(ユズ)の成木を求めたら今年は50数ケなり、隣りの夏みかんと共に食用に供している。 50数年経つと夫々の樹木に夫々の思い出があり、安楽椅子から眺めていると餌づけしているリスが毎日午後決った時間に2匹(ツガイ)やって来て、気ぜわしげに喰べているのを眺めるのも心温る毎日である。 回 想 文集には「庭の木」の題にて寄稿していたが、恐らく此の文集が12月クラブでは最後のものであるであろうと思われて、編集委員の水田君の諒解を得て、重ねて此の駄文を掲げて貰うことと次第を先ず御諒承願い度い。 亦、学生時代以降のことは、既刊の文集に書いてあるので、それ以前のことに触れて謂わば逆説的ではあるが、自分史を完結したい気持である。 私は大正の初め第一次大戦の最中、東京府北多摩郡宮沢村で生れた。その后、村は昭和町となり隣りの拝島町と合併して、夫々の町名から一字ずつとって昭島市となった。 拝島には川崎と並んで拝島大師があり、正月3ケ日はサーカスがテントを張り、それを見たさに4キロの道路を苦にせず、歩いて行ったのも今にして思えば幼い頃のなつかしい思い出である(当時はバスはなかった)。 当時はアメリカ向けに生糸輸出が盛んで所謂カイコを飼う養蚕が各家で行われ、その為に、小生が生れる前から家は木造四階建でうだつが2ケ所あり、そこから1000メートル離れた多摩川を望見するのが楽しみだった。 父は養蚕ばかりでなく蚕種製造も行い、東京、埼玉、神奈川と手広く販売して、余りにも多忙であった為体調を崩し、一時伊豆の温泉に行く始末であった。近所のさがない連中は「与三郎さん(父の名・2代目)は余り金が入りすぎたので気が触れたのではないか」と噂さされる仕儀となった。 父は入ってくる金で田畑を買い増して行き、50町歩近く拡大し(戦後マッカーサー命令で3町歩に減らされた)、梨、栗、桃などを植えその産品を市場に出荷していたが、大部分は小作に出し、年末になると庭に小作人が荷車を引いて来て積み上げ(当時は物納)、八王子から米屋がトラックで引き取りそれが父の現金収入となった。 父はその金で12軒の貸家を建て、立川駅の近くに5軒建てた。入居したのは立川の飛行第五連隊の将校達で、その家賃取立てを委されたので、取立てに伺うと将校夫人から「家主の坊チャンが来た」とて茶菓の供応を受けることもシバシバだった。 家賃は月35円なので2軒分70円が小生の1カ月分の小遣いとなり(当時の大学卒の初任給は75円)、大学には殆んど出ず国立駅を素通りして、東京に出て先ず有楽町に行き、日劇か有楽座で映画を見て、そのあと神田の古本屋をブラつき、新宿に出て、また武蔵野館か昭和館で映画を見て、夜半に家に帰る始末、当時は必ずパンフレットをくれたのでアルバムを作り全部貼ってある。それを見ると1939年には年36回行ったことになる。 当時は母家をはなれて別棟の部屋に一人住いしていたので、家族とは朝食時顔を合わせるだけで、時には、お前いたのかと他人顔されることもあった。 次兄は支那事変時南昌攻撃戦で戦死し、その遺品カメラ・ライカが返されて来たので撮りまくり、引伸機を買って自分で現像引伸した結果、アルバムも127に増えてその為の書棚は3基揃えねばならなくなった。 今にして思えば、戦争は兎も角として良き時代であった。 追記・本文を書くのに漢字を忘れて、辞書を引き乍ら書いたが、その辞書が予科時代の久松濳一教授監修の新潮国語辞典であるのもなつかしい。 |