7組 岩本治郎 |
1.序 昭和13年、高商3年生のとき『喃、治郎、儂の出た学校はな。大変良い学校だったよ。良い先生方にも恵まれて幸せだったな。どうだ、お前も一つ、やってみるか。儂もすっかり元気快復したことだし』と言う父(明治42年本科、44年専攻部)の一言が、きっかけで首尾良く一橋に御縁が出来るようになった。爾来星霜60数年。有難いことには命ながらえ然も健康で今度の記念文集にも寄稿させて頂くと言うことは全く冥加の至りである。 大正中期生れの私達は我国未曽有の大戦争と敗戦後の大混乱に身を投じ疾風怒濤を乗り越えて今日に至っている。大学同期の戦没者は一割相当の35名の多きを数え又、私がお世話になった各学校同期の死没者の割合は五割強乃至7割弱にも及び夫々、相当割合の戦没者を含んでいる。 扨、ここで自分の過去を振り返えってみると幼少年以来、余りにも数多くの危機に出合い乍ら其の都度、命を全うしてきたのには驚くばかりである。その事柄が例えば3回とか5回位なら『運が良くて助かった』で片付けられるかも知れないが、以下、思い出すままなる出来事を記してみるがこのように数多くの助けに恵まれたと言うことは目には見えない霊妙不可思議な偉大な力、即ち神仏の冥助の然らしめるところと考えざるを得ないのだ。勿論、父母の高恩を始め幾多、周囲からの御恩の数々で支えられているのだが。 2.青少年時代 私達の生れた頃、所謂スペイン風邪と称された悪疫が猛威をふるって世界数千万の幼小児を犠牲にした由であったが、どうやら、これを免かれた。これに続き肺炎と麻疹の併発で高熱で苦しみ叫んで母や祖母を心配させたことを覚えているが、これ亦、助けられてきた。 無鉄砲で腕白無類の小学生時代、横浜市磯子区根岸の自宅の裏山(山の上に競馬場があった)の崖登をやって見事大失敗、数10メートルの高所より仰けざまに毬の如く転落してしまったのだが、何と落下場所には手頃な二股枝の松の木があって其処へ両脚がひっかかって恰もブランコに乗っている格好。シャツが破れ多少、背中に擦り傷が出来た程度で済んだのだが。下手すれば全身打撲、即死必定。 山の次は海での出来ごとである。両親には内緒で1時間30センの貸ボートを借りて一人で漕ぎ出した。相当遠くの沖合に至った頃、無謀にも水深は如何と潜ったものだ。幾ら潜って行ってみても底に届かない。上を見上げると陽の光が弱く周囲はうす暗い。何となく恐くなってきたので海面に浮かび上ろうとした途端、大きな電気水母の細長い足が全身にからみついてきたものだ。無数の木綿針で一斉に刺された痛さである。気が遠くなりそうなところを必死に堪えて海面に浮び上ったところが、これ亦不思議、ボートの側面であった。あとで友達に聞くと、この辺は結構、潮の流れがあるところだと言う。若しこの奇跡なかりせばボートは遠くに流されて力尽き果てそうな私は溺死必至と言うところ。 それから数年経って商業学校下級生の日光行修学旅行の折、省線電車が新橋駅近くに差しかかったとき、車内が余りにもむし暑くなってきたので車窓を開き迂闊にも大迂闊、上半身を車外に乗り出した。その途端、一陣の熱風が身体をよぎったのだ。ヒヤットして恐る恐る振り返えってみると鉄製の電柱と車体の間隔が僅々数10センチメートルしかない。あの熱風は暖められた電柱の暑さで、それを浴びたのである。一つ間違えば上半身粉砕で夕刊の三面記事の好材料になるところであった。 これは大学入試の十日間位前の出来ごとであった。学課の方は準備完了でヤレヤレ一安心となったが急に両足が重苦しく一歩も歩けないと言う仕末。一旦は内心受験を諦めたが学校々医の親切な連日の往診のお蔭もあってどうやら歩けるようになって辛じて受験出来たのだ。腎臓脚気の相当なもので、そう簡単には治らぬ病気と聞いた。全く有難かった。 3.兵役時代 井藤ゼミ仲間の海軍委託学生篠原主計大尉の愉快な宣伝にのせられて所謂短現主計科士官として海軍に入隊し満4年半を過すことになった。昭和18年秋、ガダルカナル其の他南東方面海域の戦況が頓に悪化してきた事態に対処してニューギニア島西部の要衝マノクワリに警備隊を設け、程なく其の東方、指呼の間にあるビアック島を陸海軍の最大防衛基地として強化することとなった。当時ニューギニア島は世界、最後の暗黒大陸、炎熱地獄、悪疫瘴癘、食人種の住む土地と言われていた。 私は海軍経理学校卒業後、しばらくの間、海軍艦政本部に勤めていたが右様の事情で其の年の七月、新設された警備隊に転属することとなった。横須賀海兵団で部隊を編成して輸送船で総員300名前後の将兵が作戦地に向うのだが隊伍が桟橋近くに差しかかったとき数10の遺体を担架で運んでくる行列に出合ったのだ。聞けば、つい先日、近くの伊豆大島附近で沈められた英霊だと言う。私達は間もなく其処を通ると言うのに。一同、暗然たる思いであった。 目を充血させ痩せる思いで敵船、敵機に対し懸命の厳戒を続け途中の数ケ所で船団の編成を繰り返えし乍ら、漸く1か月がかりで目的地マノクワリ安着。既に其の頃、濠州から敵機が頻繁に来ているとの情報があるので早速、徹夜で搭載物資の揚陸作業が開始された。翌日、正午近く突如、雲間から敵大型爆撃機七機が爆弾を投下し始め、其の中の2発が本船に命中。幸い揚陸未済の多くの爆雷には命中しなかったものの折角、苦心して積み込んできた主計隊の食糧、衣料其の他の物資の殆ど全部を魚腹に呈上する羽目になってしまった。更に残念であったのは船上作業員7名が戦死したことだ。私は此の日の正午からの揚陸作業指揮者として桟橋上で交替要員の内火艇の到着を待っていたので危うく此の難を免れたのである。僅々10数分間前後が運、不運の分かれ目であった。警備隊主計長N氏ほか多数の連中がズブ濡れ姿で救助艇に収容されて戻ってきた。因にN氏は同学16年3月卒の人物であって最後はこのマノクワリで大変な悲運裡に其の生涯を閉じている。 この警備隊の陣容は先遣部隊約百名に今回の本隊増員の約300名を加え、これに各地に分散する派遣隊員を加えても1,000名足らずの小規模で、兵器としては爆雷、大型機銃、それに数隻の大発(小型の人員、貨物の運送用船)を擁するのみで話にもならぬ。又当隊に隣接して数千名の陸軍諸部隊が犇めき合っているが、このうち高射砲隊が10門前後の砲をもっているほかは海軍警備隊と大同小異の有様だ。そして殆どすべての部隊が、ここへ到着以前、途中で船が沈没し辛じて辿り着いたと言う。 貴重な食糧を全部、失ってしまった私達は早速、現地自活の体制をとらざるを得ない。とに角、ジャングルを片端から伐採して主食のタピオカや野菜類等々、虫害、鼠害を防ぎ失敗を重ねて前進するのみだが灼熱の熱帯地の炎天下、マラリア、下痢、栄養不足の身をもって重労働するのは容易なことではなく戦病死者の数が日増しに増えてくる。一方、爆撃、銃撃、就中、低空銃撃が段々正確、且大胆になってきたので我軍の犠牲者は一層、増えてきた。 敵軍が圧倒的に強力な艦艇及び航空機をもってニューギニア北岸、東方の我軍を席捲し西進しつづけて遂に上述のビアック島数万の陸海軍部隊が全滅した。其の頃、警備隊の最後の迎敵作戦としては海岸線に爆雷を多数埋め込んで、これを電線で結び、敵の上陸軍を一挙に吹き飛ばし其の他の敵を裏山の大洞窟におびき寄せ、ここで刺し違えると言うものであった。そして私が食糧輸送隊の指揮者となって百名位の作業員を動員して片道2キロメートル前後の急峻を汗にまみれて運び込んだ。このとき数名の者が銃撃で負傷し又、何人かの者が体力消耗して脱落してしまった。 其日、私は全員洩れなく罹病すると言われた強烈なマラリアに罹って体温計の水銀が天井に殆ど届くばかりの高温に、もがき苦しんだ。気がつくと何時の間にか仮設ベッドより転げ落ち冷い土間の上で半死半生、夢幻の世界をさまよっているうちに久し振りに横浜の自宅に帰宅してヤレヤレとばかり呑気に休んでいる夢を見た。夢が覚めては全く残念至極。3日位たつと八度台に下熱するので、この機会に無理にでも口に食べ物を押し込んで少しでも消耗を防ぐのだが、これが出来ない者は忽ち極度の栄養失調症に陥るか或いは悪性の黒水熱に至って死ぬ。私は、このマラリアに3回罹ったが幸い死を免れたのだ。 生意気な敵艦載機は1機又は2機で私達が『アメ公の空中サーカス』と称した芸を見せてくれる。エンジンをとめて高所より、こちら目がけて銃撃し乍ら降下しエンジンをかけては急上昇しこれを数回くり返して去って行く。農耕地には諸所に所謂『タコツボ』と称した穴が用意されており、此処へ緊急退避するのだが1機の場合はとにかく2機ともなれば他の安全な場所に移ることが出来ず唯々安全を祈るばかり。『タコツボ』の周囲には多くの敵弾が突き刺さって土煙を立てているのだ。何人かが、この犠牲になった空恐しい光景であった。 或る日のこと今日は大分、雲も多いので恐らく空襲など休むだろうと思い、久し振りに軍馬(戦利品)を散歩させてやろうとN氏と2人で兵舎周囲の石畳の道路を走っていた。が何気なく気がつくと前方の道路上に何條かの白色の点線が、こちらを目がけて迫ってくるのだ。これは奇怪千万と前方を見据えると何と海上低くエンジンをとめて飛んできた敵2機の翼の左右の銃口が火を吹いているのには吃驚仰天、先頭の私が『空襲だ。馬おりろ』と叫んで2人は同時に左の側溝に身を潜めた途端、私の右頬近くに熱風が感ぜられた。敵機が去ったので道路に上ろうとしたとき真赤な水が滝のように流れ落ちてきた。よく見れば先程まで御機嫌上々の軍馬2頭、揃って首が折れ曲り腹から臓物をはみ出して血の海の中。真に凄惨な地獄図であった。先程の何條かの白色の点線は銃弾が規則正しく石畳を削りとった痕跡で、触って見ると未だ暖かく熱をもっていた。右頬近くの熱風は銃弾によるものに相違なかろう。今考えても能く災難を免れ得たものと思う。N氏もこのときは無傷であったが間もなく戦死されることになる。 某日、私は世にも不思議な経験をした。其の日は平素の数倍も多くの爆撃機が見事な編隊を組んで来襲した。敵機は等間隔を保って爆弾を投下し乍ら上空に迫ってくる。視力の良い私には肉眼で落下する爆弾の行方が良く分かることがある。着弾時の大震動が段々、近付いて砂塵を浴びる。勿論、身体を伏せ俯いて無事を念じていると、どうしたことか忽ち私は5、6歳位の子供に戻ってしまい、若かりし頃の母と観音さんが交替して私を背負ったり手をとって三重県四日市の生家の前の道を小走りに避難しているのだ。これ亦、夢うつつの世界であった。観音さんのお姿は生家の仏壇横の壁に懸けられていた狩野芳崖画くところの『悲母観世音菩薩』像であった。暫くして眼が覚めるように現実に戻ったが此のときは当隊は無傷であったが少し離れた陸軍部隊には損害があったと聞く。 終戦の2週間位前の頃、私は相変わらず農場に宿泊して食糧輸送作業に汗を流していたが或る日の正午近くのことマノクワリの本隊上空に敵の大編隊が飛んでいるのが望見された。海上直距離約四キロを隔てた当農場へも着弾時の震動が伝わってくる。『昨日は、こちらで今日は本部か。敵さんも毎日、御苦労なことだな』と見物していると、とんでもない大事件出来の電話に続いて間もなくサイド・カーの出迎えが来た。聞けば先刻、大型爆弾が大防空壕の出入口の一つに命中し其処に居られたらしい部隊長岡村少将以下多数の者が戦死されたようだ。直ぐ本部へお越し願います』とのこと。急行して現場を見て驚いたことには、さしもの堅牢無比と言われた大防空壕も弱点の出入口をやられては、ひとたまりもなく岩石は崩れ落ち鉄のように強靱と聞く鉄木製(この木は水に沈む)の枠組は四散し、近くの折れかかった椰子の枝には戦死者のシャツの破片と肉片らしいものが風に吹かれて揺れておる。何とも悲惨。この世の地獄だ。戦死者は部隊長以下13名。うち士官3名は全身粉砕、他はガス中毒死で、このほか多数の戦友が重軽症を負わせられたのだ。私も危うく同じ運命を辿るところであったがこの難を免れた。と言うのはこの大事件、前日の夜遅く疲労困憊して休んでいた私にN氏より電話で『用があるので是非、来てほしい』と言うので、已むを得ず着替えて拳銃持参で夜道を急行して到着した旨挨拶したところ、囲碁に熱中していて、振り向きもしない。当方、全く不愉快となり、明日も早起きしなければ、と農場に戻ったのだ。若し心地よく迎えてくれてその夜は本部宿泊、翌日、午前中位は、ひと休みしてはと言うことにでもなっていれば私も全身粉砕のお仲間入りは間違いない。全く一寸先は真暗やみ。神仏のみが知るところである。 幸い敵軍の上陸はなく静かに終戦の勅命を聞き何時、復員船が来るのやら不安の中で相変らず農作業と漁撈に励むこととした。この頃も続いて戦傷死者、戦病死者があとをたたず大変気の毒であった。昭和21年5月末、待望の復員船到着。6月中旬、2年9ケ月ぶりで横浜市中区(当時)南太田町の自宅に戻ってきて又々吃驚仰天。何と我家の影形は消えて350坪位の敷地一杯ジェラルミンの山。所々に折れ曲ったプロペラが突き出している有様だ。目の前は真暗。テッキリ両親と妹は死んだのか、と諦めて焼け残った生垣をめぐって正門まで来たら大きな板に墨痕鮮やかに父の筆で『家族全員無事、どこどこに移っているから其処へ来い』とあったので此処から再び2時間以上かけて夜遅く避難先に到着し再会の喜びをわかちあったのである。聞けば20年4月中旬の横浜大空襲の際、高射砲弾に当った敵B29機一機が附近の崖に墜落して木っ端微塵となり其の残骸が全部、我家に落ちてきた由。時刻は夜遅く3人は就寝中であったが轟音で飛び起き焼夷弾で燃え盛る部屋内の火を避けて着の身着のまま山の方へ避難し怪我一つ負わなかったのだ。偉大な仏天の冥助がここにもあったのである。 4.会社生活 横須賀の元航海学校に宿泊して2人の元の部下と共に40日余に亘って部隊の残務整理をし終って両親の仮の住居に同居し会社生活を始めたのだが此処でも又もや波乱万丈。微力乍らも全力傾注して事態を切り抜けて参り、ここでも、いろいろと冥助を頂いている。元の勤め先は、此の後、1年経ってマッカーサーの指示で解散させられて吹けば飛ぶような百数十社の群小会社が簇生し私も其のうちの1社に招かれて経理其の他を委せられた。何分、素寒貧の超弱小会社のことで月末、年末の手形決済には本当に苦心惨憺、無い智恵を絞り絞って対処し堪えてきた。朝夜の出退勤の折、必ず神仏に今日の無事息災を念じてきたものだ。当時の同僚と『あのときは大変だったな』などと昔を偲んだものだが其の同僚も殆ど亡くなった。 会社はどうやら成長し3回合併を重ねて曽てのスケールの大会社になってきた。そして外国派遣員を出し始めた折、私はブラジル駐在員に選ばれて赴任した。言葉は飛行機の中での独学でスタートした。昭和30年12月のことである。4発エンジンの飛行機がホノルルを離れて2時間位経ったとき機中が急に騒がしくなってきた様子で乗務員が右側の窓より外を眺めている。放送によれば右側エンジン故障で停止。救命衣を着用するようにとのこと。ガソリン放出で窓は真白。万一火花が出たら大爆発。私は此処でも懸命に無事を祈って息災であった。殆ど倍近くの時間をかけてホノルルに戻り修理して後再出発した。 何分、西も東も分らず言葉はサッパリ。下手な英語を操り先遣数名の営業マンの案内などで漸く現地会社を設立し役員、資本金等登記を済ませた。幸い親切な弁護士、経理士、現地社員に恵まれて大助かりであったが何分、我国では見られぬ貿易手続、商法、労働法、就中、税法(会社・個人共)があって屡々面喰った。所謂中進国の法規は経営に相当大幅の裁量が委せられておるらしく突拍子もない要求を出されて閉口したものだ。一流の某社が税金の問題が縺れた挙句に会社を倒産させ然も其の近所に少し商号を変えた丈けの新会社を設け相変らず盛業を続けていた手並みには流石、と関心させられた。 某社の次には間違いなく当社が狙われるとの前評判しきりで私は厳戒体制を整えて今や遅し、と敵機襲来?を待っていたが『備えあれば憂えなし』で在伯6年間の仕事を無事全う出来たのである。通勤は片道歩いて15分。往は無事を祈り帰りは平穏を感謝する毎日であった。 帰国後、東京・名古屋・東京で何れも経理部局の仕事を担当させられた。今度は金不足の心配は無いが時々、税務、外国為替に問題が生じたり極くまれのことだが巨額の不良債権が突発したりして対応に腐心しつつ解決してきた。神仏の冥助により面倒な問題解決に良い智恵を授けられたことが多い。 某日、ニューヨークで全米経理会議開催に当り数名のお歴々の訓示を作って代理出席をして欲しいと言う訳で出掛けたが其の帰途ホノルル上空少し手前で突然猛烈なエア・ポケットに因る急降下があった。然も続けて2度である。頭上の棚の毛布や枕の類は一斉に落下し、脱いでいる靴、スリッパは前方に飛ぶようにすべり落ちて行く。良く見れば機体は45度位、傾斜しているのだ。乗客の『ヒャー』と言うような叫びとも呻きともつかぬ声が今でも耳に残っている。ここでも再び冥助を頂いておる。これ以来、私は大の飛行機嫌いになってしまった。 此の会社が定年となり次の会社の調査と再建を委託された。月商50億円位の中堅商社で少し調べてみると外面盛業、内実火の車。私が赴任する1月位前に突然、労組が結成され実行不可能の要求の数々を突き出され従来の経営陣はお手上げの状態である。そこで私も所謂労働三方なる法律を大急ぎで勉強して従来の経営陣と組合幹部、場合によっては組合員全員の双方を相手に一人で対決し妥決し問題解決に努めてきた。折角、入社してきた多くの社員を馘首することは全く、やり切れない思いがしたが大の虫を生かす為には仕方がなかった。組合幹部は優秀な社員が多く会社側の実情を了解し当方の回答を受け入れて呉れることが、しばしばあって会社の業績は上向いてき始め又、見透しも明るくなってきた。 この6年間、幸い病気一つせず朝は早く夜は大変遅くまで懸命に働き続けられ且つ概ね期待に沿うことが叶えられたことは何と言っても神仏の冥助によると同時に妻の行き届いた心遣いによるものだ。 唯、残念なことには私が退任して三年近く経った頃、徒に気位だけは高いが自社の内情に全く無知な社長さん、私の出身の元の会社からの支援を拒絶して信用不安を招来。忽ち倒産し御本人は癌を病んで騒ぎの最中に死去された。気の毒なお方であった。 5.昔と今と 我家は先祖代々篤信家で石見国(島根県)の旧家の流れの一つである。私の物心のつき始めた頃、四日市の住居では朝晩、仏壇の前に祖父母以下家族全員勢揃し禅宗曹洞宗の修證義ほか観音経其の他の経典を1時間位かけて読誦し又、神棚を拝したのち始めて食事にありつける日常であった。勿論、経文の意味はサッパリ分からず足が痺れて堪らない。隣りの1歳ちがいの弟と悪ふざけを始めると祖父か父の木魚のバチが頭へコツンと来る。不思議なことに経文の意味皆目不明でも殆ど其の発音全部を暗記したことで、これが後年、3度の入試の為の俄か勉強の暗記にもいくらか役立っていたかも知れぬ。 辛じてニューギニアから生還出来てのち当時の数々の奇跡を思い浮べ片端から仏教関係の書物を買い求め会社から帰宅後、夜中にかけて乱読した。平安時代末から鎌倉時代以降の勝れた祖師方の伝記や説法も興味をもって読み漁り、偉大なことに納得し又、圧倒される思いがした。戦後の大混乱を背景に幾多の新興宗教が叢生したが果して500年、1,000年のちまで生き残れるものがどれだけあるであろうか。書物としては世界の禅者と言われる鈴木大拙の全集と選集や『日本の禅語録』シリーズなどを特に興味をもって毎夜更けまで読んだものだ。公案を尊ぶ臨済の看話禅、只管打坐の道元の曹洞禅、法然・親鸞・一遍の系統の念仏宗など祖師方の深い信仰と強い弘法救生の熱意に打たれた。自力・他力と夫々あるが登れば同じ富士の山頂と言われる通りか。武士出身、時宗の開祖一遍上人の足跡の幾つかと遷化の地(神戸市兵庫区)を訪ね又、道元上人の所謂鎌倉名越の白衣舎跡(道元の俗弟子で幕府の重臣、波多野義重の屋敷で道元、鎌倉出張の節、ここに宿泊したところ)を探し廻ったが徒労に終った。尚、道元の有名な『正法眼蔵』ほかの著述に触れてはみたが、私の歯の立つところではない。全くヤレヤレである。 金を出しても買えない戦地での体験で文字通り『無常迅速・生死事大』の教えを肌で感じてきた私は我生は『煩悩無尽』なることを十分、自覚してはいるが果して我死は如何なるものであろうか、と言うことでこれ亦、何冊かの本を読み漁った結果、己れの体験と照らし合わせて自分なりの結論みたいなものに到達したのは嬉しいことだ。又、十二月クラブのお仲間のなかに難解無比の道元さんの著述に立ち向い研究を続けておられる友がいることは何とも有難く又、嬉しい限りである。 丁度、10年前の夏、私は妻と2人で日帰りのバス旅行で栃木県足利市の足利学校の門前に到着したとき突如、背中と左胸に焼火箸を突込んで、かき回わされるような激痛を感じた。直ちに全身汗だらけとなる痛さ。聞けば本日は全市の医師の休診日。其の上、全然タクシーは見当らぬ。こうなっては頑張るのみ。敢えて救急病院のお世話にならず家内と2人3脚で死に物狂いで列車、電車を乗り次いで漸く自宅近くの妻のかかり付けの医師に辿り着き其の手当を乞うたところ親切に診て下さったお蔭で助かった。あとで聞けば心筋梗塞に近い狭心症とのこと。全く桑原、桑原であった。幸い其の後、再発はしていないが油断は禁物である。 一方、妻は曽ては弱かったが幸い老来、著しく健康を快復した。先年不慮のバス事故で大怪我を負わされて足に人工骨を埋める迄に至ったが外科医の手術、上首尾で短期間に全治したのは有難いことであった。然のみならず生来の極端の弱視が名医の手当のお蔭で両眼共スッカリ健眼となってしまった。これ又々神仏の冥助によると申すほかはない。 私は会社在勤時代から最近まで妻の理解もあって自費出版五冊のほか3冊を編集、夫々刊行して関係者に大変、喜ばれてきた。7年余の調査に基く先祖の研究書等々である。痛恨この上ないことには私より1歳違いの弟が陸軍の徴用船第一吉田丸に乗船し多勢の戦友と共に南航の途中、南支那海において昭和19年4月26日未明敵潜の魚雷が命中、轟沈。将兵の大半が無念の戦死を遂げたことで弟もその中の1人であった。私は何とも残念でならず鎮魂、供養の意味をこめて凡ゆる資料(米国側の資料共)を集め且つ生還者を探し求めて詳しく様子を尋ねた末、これを1冊の本とし『大東亜戦争戦没岩本龍平追憶之記 第一吉田丸の遭難 』と題して広く関係者に贈呈したところ特に遺族の方々から涙を流して読まして貰った、との礼状、電話を度々頂いた。この書を第一吉田丸の大型写真と共に靖国神社に献納した。これがキッカケになった故か数人の陸軍出身者が同種の本を刊行しておられる。 父は87歳、母86歳の天寿を全うして逝った。父の臨終には会社勤務の都合で立ち会えなかったが母は休日の折りで幸い最後を看とることが出来た。臨終枕頭の母と私との会話や母の温容は私自身の死に際に好影響を与えてくれるように思われてならない。更に父母共に妻の日頃の親身も及ばぬ看護に感謝して逝った。幸いなことに妹2名は老年乍ら夫々家族と共にどうやら達者で過している。戦国悲運の武将尼子氏の家臣、山中鹿之助は『神を敬うも神に頼まず』と言った由であるが見かけはとに角内心、甚だ気弱の私は神仏を崇拝すると共に其の御加護を念ずることしきりである。朝は朝食前、夜は就寝前に妻と共に神棚と仏壇に手を合わせ無事を祈り息災を感謝しておる毎日である。 擱筆に当りクラブ通信編輯委員の新井・水田・渡辺三君の日頃のお骨折りに感謝致しております。有難う。平成13年6月30日記。 |