軍  刀 7組 野村好夫

 

 昭和19年7月頃、私がフィリッピンのマニラに隣接するケソン市のケソン陸軍病院に入院していた時の話である。ここはフィリッピンのケソン元大統領が建立したケソン大学が臨時の陸軍病院に改造された場所である。小高い丘陵に添って美しい校舎が並び大きな陸軍病院になっていた。 

 私は昭和19年2月インパール作戦で印度領内にまで進攻していたが、そこで負傷し左脚は脛から下の二本の骨が敵の迫撃砲で一本吹き飛ばされて一本になり、左上膊から左胸に向って砲弾(10cm榴弾砲)の破片が貫通し、左上膊が複雑骨折をおこしたが、重症でも一命はとり止めることが出来た。そしてインド領内からベンガル湾添いに野戦病院を転送され、昭和19年4月27日ビルマのラングーン陸軍病院にたどりついた。こゝはビルマ最大の陸軍病院であるが、北のインパール方面から沢山の負傷兵がラングーンに転送されて来るので、私のような重傷患者に長い時間をとる余裕はなかった。それで私はシャムのバンコツクに空輸され続いてプノンペン(カンボチャ)、サイゴン(ベトナム)マニラ(病院船で)に送られて、昭和19年6月23日フィリッピンのケソン陸軍病院に辿りついた。

 こゝは南方地域では特に設備のとゝのった陸軍病院で技術レベルも高かったと聞いている。私も早く傷を治して又第一線に復帰しなければならないという使命を負はされていた。そして命令によってケソン病院で左手の手術を受けたが結果は失敗に終った。左上膊の骨折がひどくて、砕けた不要な骨を取ったら上下の骨の間隔が開き過ぎて骨が継がらなくなった。この場合は腰などの健康な骨を切り取って、それで橋をかけなければならないらしい。然し当時この手術が出来るのは東京第一陸軍病院だけだという事で内地転送を命ぜられた。

 然し当時南方の戦況は優勢な米軍の勢力下にあって簡単に内地転送は出来ない。私は暫くケソン病院にとゞめられることになった。

 まだ体力は充分に回復していないので病院の廊下を散歩する位が唯一の楽しみであった。そんな或日娯楽室に行って内地から来た雑誌とか写真でも見ようかと思って立ち寄った処、そこで思ひがけない戦友に出会った。彼は丸川君といって、私が愛知県豊橋第2陸軍予備士官学校に在学中第2中隊第10区隊で6ヶ月(昭和17年5月20日から11月20日まで)お互に訓練に汗を流した仲である。我々のいた豊橋予備士官学校は歩兵聨隊出身者で構成され歩兵部隊所属の通信隊や重機関銃隊は別の中隊を編成していた。

 我々の第2中隊の編成は金沢の第9師団と四国善通寺の第11師団の幹部候補生で編成され、合計250名位であった。丸川君は金沢師団の出身で寝台が私から二つ隣りの窓側にいたから毎日何か話し相手になった。

 お互にこんな所で再会するとはという驚きと共に豊橋予備士官学校卒業後を手短かに語り合った。(註第一豊橋予備士官学校は砲兵隊で編成)

 私は第55師団(善通寺編成)のインパール作戦に、彼は第9師団(金沢編成)のニューギニヤ島西部上陸作戦に参加し、やがて其所から戦線の状況により、フィリッピン作戦に加わるため海上移動中に輸送船が敵の魚雷攻撃により撃沈されたとのこと。その際魚雷爆発で体ごと船橋にたゝきつけられた。その際の衝撃による体の異状でケソン病院に収容されたといっていた。

 それから時々会ってお互の戦況を語り合った。

 暫らくして彼は体調を回復したので近日退院して日本のフィリッピン派遣軍に加はって軍務に当らなければならないと決心を語っていた。

 そして何か思い出したように突然軍刀を譲ってくれないかと云うのだった。彼は輸送船が撃沈され無一物になり特に将校として軍刀の補給が出来ない事に困っていた。

 私はインパール作戦で負傷して敵中に取り残されたが、同じように取り残されていた山砲隊の引上げに加えてもらった。私は負傷して歩くことが出来ないので暗闇の中を当番の松本一等兵に背負はれて友軍の陣地にたどりつくことが出来た。その際持っていたものは軍刀を除いて全部捨てたけれど、なぜか軍刀だけは大事にもっていた。

 彼は将校として軍刀のないことをとても気にしていた。私も彼の気持はよくわかるし、どうせ私は内地に帰らなければ手術は出来ないし従って軍努に復帰することは出来ない。

 私は軍刀を差し出して「貴方にあげよう」と云ったら彼は「思いもよらない」という顔をして「有難う」「有難う」と何回も礼をいうのだった。そして彼はホッとしたと云う顔をして別れていった。

 当時内地の戦況も悪くなり、ケソン陸軍病院にいた浜松航空隊のパイロットの患者を自分達の飛行機で内地の病院に空輸して出来るだけ早くパイロットとして戦闘につけるようにという作戦が始った。

 その時偶然に一人席が空いているからと、これは病院側の特別の配慮からであったが、私はパイロットと一緒に飛行機に乗ることが許された。たゞ台湾で別の用があるからと私はとりあえず台湾の高雄の南の屏東飛行場までであった。突然の出来事であるがフィリッピンを脱出できた事は私にとって運命の別れ途であった。

 その後台湾に米軍上陸の情報が入った。私達は輸送船で基隆から大阪港まで送られ、大阪赤十字病院に収容されたのは昭和19年10月29日であった。

 丸川君のことに話をもどしたい。

 彼と別れたのは昭和19年7月である。それからフィリッピンの戦況は急転回していった。

 昭和19年10月マッカーサー元帥のレイテ島上陸、以来戦況は我が方に不利となり、終戦までのフィリッピン派遣軍の戦死者は55万人と云はれている。丸川君はどうなっただろうかと何時も気になるけれど金沢方面に問い合せるルートはない。

 たまたま一橋大学の同級生の12月クラブにいる和田一雄君と翠川鉄雄君が豊橋予備士官学校の戦友であったから聞いて見たが何れも本籍は金沢方面だけれど、父親の代に東京え出てきたから探るのがむつかしいと云っていた。その通りだと思う。

 だゞ私はいつも、フィリッピンで別れた丸川君のご冥福を祈るだけである。

 「君は何処に」と丸川君の消息が何時も気になっていたが、「関係先に当って見たら」と云う友人からの勧めもあって自分で関係先に当って見ることにした。

 調査を始めて見たら、個人のプライバシーの保護という壁があって、其所で全部を知ると云う訳には行かなかったが、先づ靖国神社で金沢師団、階級、戦争場所を連絡したら、名前、当時の遺族名、その住所などを教えてくれた。

 次に金沢市役所に連絡して部隊名、戦死の年月日、階級を教えてくれたので、最後は図書館で石川県の電話帳からご遺族を探し当てることが出来た。早速電話で通話が出来て、永年の問題は解決出来た。

       記

1、氏名 丸川信次
2、フィリッピン派遣軍
  独立歩兵第81大隊
3、戦死 昭和20年3月1日
4、戦死の場所 フィリッピン・ルソン島
5、戦死当時のご遺族 父、丸川二三郎
6、階級 陸軍中尉(追贈)
7、現在のご遺族 丸川末弘(信次の弟)
8、ご遺族住所
   金沢南森本町イ−9