7組 佐田健造 |
昭和16年10月、突然勅命によって、昭和17年3月卒業予定の大学・高等専門学校の学生は3ケ月繰上げて昭16年12月に卒業することになった。同時に卒業迄に徴兵検査を受けることになった。そして吾々3年生は大忙がしで、就職先をきめることや、徴兵検査をどこで受けるかをきめて、その手続きをしなければならない。その他、学年末の卒業試験の準備や卒業論文の作成など三ケ月分のなすべき事が重なった。私は郷里(滋賀県)で徴兵検査を受けるのは、肝心な時に東京を離れることになるので、已むを得ず高円寺の下宿(今井さん)に寄留することにした。就職は11月半頃、安田銀行にきまった。徴兵検査は杉並区役所で12月7日(大東亜戦争開戦の前日)に行はれ私は第二乙種であった。卒業論文は彦根高商から同時入学した吉林登喜雄君と一緒に箱根の強羅の旅館に4・5日宿泊して書いた。雨の日が多くて風情がよかった記憶がある。 翌昭和17年1月4日、安田銀行本店での入行式に出席した。そこで新入行員の配属部署が命ぜられた。私は小舟町支店であった。支店からの迎への人に伴はれて配属店へ行った。小舟町支店は名前からして、さだめし小さな店舗だろうと想像していたが、聞く所によると安田銀行の発祥地の支店の様で、建物は震災後のバラック建で貧弱であったが、行員は約百三・四十名がゐる大きな支店であった。この支店への新入行員は私を含めて大卒3名高専卒1名の計4名であった。 支店へ着いて直ちに新入行員4名は支店長の前へ呼ばれた。支店長は竹村吉右衛門氏で大学の大先輩であった。(竹村氏は終戦後、安田保善社の理事をなさっていた関係で、パージにて一時財界から離れて居られたが、数年後パージが解けて安田生命保険の社長に迎へられ、後、同社の社長、相談役を永年勤められた。)支店長は私に「君は算盤や簿記が出来るかと尋ねられた。私は「商業学校を出てゐますので算盤は出来ますが、銀行簿記は忘れました」と答へた。次に「兵役は?」と尋ねられたので「第2乙種です」と答へた。「それでは直ぐには軍隊へ行かないな」と言はれて「貸付係荷為替担当」と命ぜられた。 それから支店長代理の貸付係担当の方と荷為替係長の飯田主任にお会いした。 荷為替とは正確には荷付為替手形と云い、通常は貨物証券を担保に振出された為替手形を割引くのである。但しこの支店では証券会社の取引が多く、証券会社が地方の証券会社に売却した株券を担保にして発行した為替手形を割引くのである。この支店の貸付係は約20名であったが、その中約10名が荷為替担当であった。私と高専卒の二人が荷為替に配属され、新入行員の他の大卒2人は2月1日に入隊が決定しているので、庶務係に入れられて、算盤の練習とか伝票の書き方などを習ってゐた様であった。 幸い私は一橋の前期(昭16年3月卒)の田中正三氏(同氏は昭和45年頃函館ドックの社長に就任され数年在職されたが、在任中に病死なさった。)の隣の席にきめられ、仕事のイロハから教へて戴いて有難かった。当時日本軍は連戦連勝で軍需産業株は毎日暴騰して証券界は大いに沸き立ってゐた。従って荷為替係は極めて多忙で毎日夜勤であった。新入行員と云えども猫の手も借りたい状態で、入行初日から残業であった。入行後、毎日のように残業が続いて下宿に帰るのが遅いので、下宿のおぢさんが「よくもてますな、毎晩歓迎会ですか」と言うので、「とんでもない、毎日仕事です」と答へたら「新入行員がどんな仕事が出きるのですか」と問うので「毎日封筒の宛名書をしている」と言ったら、「それなら出来ますね」と驚いてゐた。当時の商法では株式は白紙委任状がないと名義書換が出来ない。そこで株券の郵便小包とは別に白紙委任状を書留郵便で送ったのである。(貨物保険料の節約にもなった。) 1月20日頃、郷里から電報がきて、陸軍から臨時召集令状(所謂赤紙)がきたと知らせてきた。内容は「2月1日伏見輜重第16聯隊に出頭せよ」とあった。翌朝早速、銀行の上司に報告した。私は身体が弱いので軍隊には行かないものと思い込んでゐた。と言うのは彦根高商への入学の時、入学は許可するが身体検査をもう一度受けた上で、出校日をきめるという事があった。また彦根高商から東京商大を目覚してゐたが、受験の半年程前に兄が軍隊に召集されたので、両親の要請で郷里から比較的近い神戸商大に志望校を変更した。処が受験当日、風邪を引いてゐた為か、レントゲンと血液沈降速度検査の結果が悪く不合格となった。已むなく、一年間名古屋高商の商工経営科に浪人して、翌年東京商大に入学した過去がある。 支店では驚いて早速その夕、貸付係全員の壮行会があり、二次会などで夜遅くなって、已むを得ず飯田主任のお宅に泊めて貰った。次の日は土曜日であったが荷為替係は多忙で6時頃仕事が終った。その夜は荷為替担当係だけの壮行会があって、また遅くなり飯田主任のお宅に泊めて貰った。当時下宿には電話がなくて連絡が出来なかった。翌日・日曜日のお昼頃高円寺の下宿へ帰ったら、おぢさんが赤紙がきてから二晩も帰って来ないから心配で先刻近所の電話を借りて竹村支店長のお宅へ私が赤紙がきてから二晩も下宿へ帰って来ないが毎日銀行に出勤しているかと尋ねた許りだと、ほっとした表情であった。おぢさんは東京火災(現安田火災)の役員の運転手で、竹村支店長のお名前を知ってゐた。電話のある近所の家へ行って電話帳で支店長のお宅の電話番号を調べてかけたとのこと。竹村支店長は大変驚かれて至急調べて返事すると言はれたが、近所の家の電話なので、こちらから暫らくして電話することにしたと。私が帰ってきたので、急いで近所の電話を借りて電話してくると言って出て行った。おぢさんが電話した所、支店長は大変喜んで居られた。支店長はおぢさんから電話を受けて直ぐに貸付係長と荷為替主任の飯田さんに電話して飯田さんのお宅に二晩泊ったことが解って安心されてゐたようだ。後に私が考えたら竹村支店長も下宿のおぢさんも、赤紙が来てから二晩も下宿へ帰らなかったので、軍隊へ入るのを嫌って逃亡したのではないかと心配されたのだと反省した。逃亡だと憲兵に逮捕され厳罰を受ける時代であった。 余談であるが、昭和37年10月私が富士銀行兜町支店長になった時、取引先への引継挨拶が終った次の日の朝、安田生命の竹村社長が来訪された。当時安田生命の本社は兜町支店の近くの鎧橋にあった。竹村社長は開口一番「私が安田銀行の支店長の時の新入行員が支店長になったので、お祝いに来た」と申されたので恐縮した。入行して僅か20日お仕へした新入行員の名前を覚えて居られたのには感激した。それも入行直後に召集されて前述のような格別ご心配をおかけしたからだと思った。 昭和17年2月1日、伏見輜重第16聯隊に入隊した。幸いにして輓馬中隊でなく自動車中隊であった。(輓馬部隊は馬の世話があって自動車部隊以上に肉体的苦労が多かったから)。新兵は全員が学校を繰上げ卒業の者許りで、大部分は現役であったが、私の中隊では補充兵が16名ゐた。 2月末頃に幹部候補生の試験があるが、その3日程前に准尉に中隊の補充兵16名が呼び出された。いきなり全員ビンタを喰った。そして「貴様等は幹部候補生の受験資格があるのに今日迄に1人も志願する者がゐない。直ぐにこの場で願書を書け」と強制的に志願させられた。徴兵検査で甲種又は第1乙種だった者は現役で入営したが、第2乙種だった者は直ちに召集されるとは思ってゐなかったので全く準備してゐなかった。3日後に試験があったが、筆記試験は殆んど白紙で答案を出した。口頭試問も例えば軍人勅論「○○○○の次」と質問されても「わかりません」と大声で答へるだけであった。処が翌3月中頃、試験の結果が発表されて、補充兵16名中唯一人私が甲種幹部候補生に合格した。それから甲幹約15名は4月中頃から10月まで東京の砧にある(現在東京農大のある地)陸軍輜重兵学校(通称陸軍自動車学校)で教育を受け10月25日将校勤務の見習士官となり原隊に復帰した。その際中隊長に「補充兵出身候補生のうち私1人が甲幹になったのは何故ですか」と尋ねた。中隊長は「お前は声が大きいから、指揮能力ありと判定した」とのこと。一寸不審に思って准尉に尋ねたら「佐田見習士官殿は学校の教練の成績が商業学校から大学に至るまで全部甲又は優であったからでしょう」と言った。私はこの方が本当だろうと思った。 約1ケ年間、原隊では教官として勤務させられたが翌年10月ビルマ派遣部隊に転属しインパール作戦に参加した。終戦時はコーカレーに駐屯してゐた。昭和20年11月初めに英軍が収容にきて武装解除されてモールメンの近くのムドン・キャンプに抑留された。翌年6月30日モールメンを出港し昭和21年7月21日大竹に上陸し、その翌日郷里の滋賀県八幡町(現近江八幡市)に復員した。 激戦地のビルマから無事帰還したので、母や兄妹は大変喜んでくれた。処が離家に1昨年から大阪から疎開してきた一家族が入居してゐた。主人は戦時中、大蔵省の大阪財務局長をなさってゐて、退官後終戦まで名目だけ満鉄の顧問をしてゐた中村應氏の家族とのこと。取敢えず挨拶だけして長居はしないように母が言った。理由を尋ねると、2年程前に長男・次男が二人共に東大の三年、二年に在学してゐたが、学徒出陣で共に出征され、長男は大阪師団司令部があった大阪城で空爆による直撃弾で戦死、次男は終戦直前に朝鮮とロシヤの国境附近で戦死されたとのことで、私がビルマから無事復員して来たのを見て、今更ご子息二人の事を思い起され悲しみを新たにされるであろうとのことである。 それから2・3日後、大津の県庁世話課に終戦時から復員までの未受領の給料を受け取りに行った。その帰途で偶然彦根高商の同期生木本寛治君に出会った。彼は驚いて取敢えず私を彼の自宅へ連れて行った。復員した許りだが、これから仕事は何をするかと尋ねられた。「安田銀行に席がある筈だから、その銀行に戻る予定だ」と話したら、彼は「財閥系の銀行は全部つぶれるときいてゐる。(ビルマから帰国する時の船の船員もそのようなことを言ってゐた。)彼は当時県立大津商業の教諭をしてゐた。「所で近く大津商業が高等学校になる。君ならば簿記会計、英語も出来るから大津商業の先生にならないか、これから大津商業の校長を紹介する」と言って、私を大津商業の校長先生のお宅へ連れて行って紹介してくれた。私は何も解らず彼にすっかり委せることにした。(木本君は彼の妹がワコールと云う婦人用のコルセット等を造る会社の創業者で社長である塚本幸一氏の夫人となった関係で後年ワコールの副社長となった。塚本氏は八幡商業の私の2年後輩に当る。) それから数日して母が安田銀行がつぶれると云うのは本当かどうか疑問をいだき、離家にゐる中村さんならば前の大阪財務局長であるから解るだろうと、私に中村さんを訪ねるようすゝめた。中村さんを訪ねて、安田銀行は大丈夫かどうか尋ねた。中村さんは「財閥系の銀行はこれからの日本の復興に必要だから大蔵省はG・H・Qが何と言ほうとも、解体も解散もさせないだろう。あなたは早く東京の安田銀行に復帰しなさい」と勧められた。(中村さんにはその頃小学校5年生の三男があって長男次男を失ってからはその子が頼りであった。2年後に三男の学校の関係で東京へ引越された。三男も優秀で後に東大を卒業し第一銀行に入られた。) 安田銀行へかえる決心をしたが、東京へ行くにも泊る所と云へば学生時代の下宿の今井さんだけである。今井さんの家が空襲で焼失してゐたら仕方がない。急いで高円寺の今井さん宛に手紙を出した。一週間程して返事があって「お蔭様で当家は空襲で焼けなかったので何時でも来て下さい」と言って来た。 そこで東京へ行き8月10日安田銀行小舟町支店へ出頭した。店舗は4年半前と変らなかったが、行員は支店長以下役席は全部変ってゐて、一般行員も知ってゐる人は2・3人であった。支店長は太田という方で、私が昭和17年1月4日入行して約20日間勤めただけなので新入行員と同様出納係から始めるのがよい、但し今日は指定日(第一封鎖予金と第二封鎖予金とを分離する日)なので当分銀行は多忙だから10月1日から出勤するよう指示された。 そこで大津商業への教諭願出の件を断はろうと思って木本君に連絡したが、その数日前に彼が部長をしてゐる庭球部で上級生が下級生を殴った事件があり、それが新聞に「非民主的な大津商業……と」掲載され、校長先生が GHQ から厳しく注意を受け、木本教諭も近く他校に転任するとのことで、私の手続きを取消す余裕がないとのことで、仕方なくその儘にしておいた。 9月末に上京し、10月1日安田銀行小舟町支店に出勤し、出納係に配属された。その日は出納係長から札勘などを練習させられた。しかし安田銀行の将来とか、大津商業のことが気懸りだった。私が入行した当時私の隣の席に居られた昭和16年前期卒業の先輩田中正三氏が本部の審査部に居られる事が解り、次の日曜日にお宅へ訪ねた。無事復員したことを報告し、安田銀行の将来をお尋ねした。同氏は安田銀行は絶対大丈夫だから、商業学校の先生などにはならないで安田銀行に安心して勤務する様にと勧告された。また大学同期で中山ゼミで一緒だった西川元彦君が日本銀行にゐるので電話連絡して日銀を訪れた。彼も田中氏同様財閥系銀行は決してつぶれない。また大津商業が高等学校になるというのは学制改革のことで、小学校6年、中学校3年が義務教育で、その上は高等学校3年、大学4年となるので、大津商業が決して従来の高等商業学校になるのではなく、学制改革で3年制の商業高等学校に変るだけであると教へて下さったのが何より有難かった。 それから数日後、郷里の兄から手紙がきて次の月曜日に大津商業で私を教諭に任命する辞令が出ると通知があったので直ぐに帰省する様に言って来た。驚いて近所の電話を借りて、大津商業の教諭になる意志はなく、安田銀行に引続き勤務するから、兄に私に代って大津商業へ辞退に行ってくれるように頼んだ。兄は早速翌日大津商業へ行ってくれて断ることが出来たと後日連絡があった。因みに私が7月復員直後にお会いした校長先生も木本教諭と二人共に他校に転出されてゐた由。 これで私は安心して安田銀行(現富士銀行)に昭和47年8月まで定年退職するまで勤めることが出来た。 これも郷里の私の家の離家に疎開されてゐた大蔵省の元大阪財務局長の中村應氏や、中山ゼミで一緒だった西川元彦君、一期先輩の田中正三氏の助言によるものと、今日まで深く感謝して居ります。 |