7組 作花慶一 |
その当時は何でもない事であったとしても、あとになって見ると大変な事であったと思う事がある。それは題記の軍令である。 どのような軍令だったかというと、内地にあった留守師団の編成替えである。私が体験したのは、姫路の留守54師団が長野師管区に変わった事である。私はこの軍令が出た昭和20年2月9日には、姫路中部54部隊(輜重兵)から中部46部隊(歩兵)へ分遣されて、第5中隊で経理部幹部候補生班を編成して、一日は師団司令部の通修に、一日は歩兵の戦闘教練に励んでいた。3月24日原隊に復帰し、26日には長野師管区輜重兵補充隊に転属した。転属したのは私一人ではなくて部隊ごと転属したのである。 長野へ移ったのは4月になってからであるが、短い期間に移動準備をしなければいけないので、誰も忙しい思いをした。長野の屯営は、野球の強い長野商業学校であった。聯隊本部は、職員室のある独立した建物であったが、相当古いもので、第一姫路のように広い兵営ではなくて大変狭く感じたものでした。 私は、6月陸軍経理学校へ転属するまで、聯隊本部の経理室で部隊経理の見習いをしました。兵舎は、長野商業学校の教室ではなくて、すぐ近くの長野師範学校付属国民学校の校舎の二階でした。私以外は兵科の候補生でしたが、私が最古参でしたので、私だけ経理室勤務で楽をしていると言って苛めたりされずに過ごしました。 6月いよいよ経理学校へ転属するので、一年余居た原隊と別れましたが、小平にきて5中隊(1から4までは特別甲種幹部候補生隊)に入れという事で、姫路時代に通修で一緒の連中と再会を喜んで居りました処、原隊が長野で東部軍という理由で、翌日には6中隊へ行けと言われました。これは寂しくなると思いきや大学の同期生が同じ寝室でした。 それから30年経った或る秋の日、突然隣町の温泉宿から電話がかかり、岡山歩兵隊出身の姫路で一緒に通修した早稲田大学出の者からでした。彼は5中隊でしたが、とりあえずその宿に行き、名刺を貰うと、有名な造船会社の資材部長になって居たが、姫路時代の写真を見せると、これもこれも戦死だと言ったものである。 この軍令陸甲25号のために、岡山、鳥取の部隊は姫路師団を離れて、広島師管区に所属したので、姫路師団の通修で一緒に勉強した者の中で、乙種幹部候補生は広島師管区司令部であの原爆に遭遇したのである。この軍令で、姫路師団司令部に居たはずの連中を亡くしたわけである。軍制の変更でかくも事態が違うものかと痛感した一時であった。 姫路師団司令部 留守第54師団司令部 姫路 20.4.1.長野師管区司令部に称号変更 中部46 歩兵111聯隊補充隊 姫路(大阪師管区へ移管) 中部47 歩兵121聯隊補充隊 鳥取(広島師管区へ移管) 中部48 歩兵154聯隊補充隊 岡山(広島師管区へ移管) 中部50 捜索 54聯隊補充隊 姫路 中部51 野砲兵54聯隊補充隊 姫路 中部52 工兵 54聯隊補充隊 岡山 中部53 第54師通信隊補充隊 姫路 中部54 輜重兵54聯隊補充隊 姫路 |