ゼミナール 回想 7組 澤登源治

 

 12月クラブの過去3回の記念文集には卒業後のその折々の社会人生活を投稿して来たので今回は之を補完する意味でその原点である学生時代のゼミナールにつき回想してみたい。

 小生は赤松ゼミナールを選択したが丁度入学した昭和14年4月に赤松先生が名古屋高商より商大の教授に栄転されて来られ、我々はプロゼミからの赤松ゼミの一期生である。学部の2年生以上は猪谷ゼミの方々を赤松先生が引継がれたのである。

 赤松先生は産業発展の雁行型態論或いは景気の長期波動説等弁証法的学説の展開と之を裏付ける実証的研究で著名であり、ゼミの雰囲気も開放的自主的なものであった。

 小生は学部1年の時は杉村広蔵教授の経済倫理にひかれ経済倫理について報告し、2年・3年時にはオーリンの交易条件の書物を中心に国際価値論を研究テーマとした。卒業論文も国際価値論研究と題して提出したが3ケ月の繰上げ卒業で十分な推敲検討もせずまたオーリンの学説もよく咀嚼しておらず甚だ幼稚なものではなかったかと忸怩たるものがある。国際交易の条件をいま少し深く比較検討して赤松先生の唱える産業発展の雁行型態論と融合させたら一つのまとまった推論になったのではないかと反省している次第である。

 ただゼミナールで特に思い出に残るものに新世界経済四季報を第1集から第4集までその発行に関与したことである。それは学部2年生の秋のことであった。赤松先生よりゼミナリステンに対し高山書店より年4回世界経済に関する四季報を発刊したいので赤松先生監修の下で引受けてもらえぬかとの話が持込まれている。赤松先生のアイディヤは先生が総論を書き各論はゼミナールの有志が匿名スタッフとして執筆して赤松 要監修として発行してみないかとのことであった。

 小生はゼミ委員をしていたので先生との間の連絡調整に当り、ゼミナリステンの意思をサウンドすると非常に積極的で小生の他に前田寿夫君塩見英二君鈴木貞夫君伊藤信典君などが中心スタッフとなって高山書店の申出を引受けることになった。ただゼミナリステンの中でも間宮君は学生委員長をして居り、一森君は水泳部と、みんな既にそれぞれスポーツや課外活動にコミットしているので最終的には日銀調査局勤務の赤松先生の弟さんと将来のことを考え1年生から船越君など1〜2名を加え約8名前後の執筆スタッフを結成した。

 赤松先生を中心に編集会議を開き米・独・仏・欧州或いは東亜圏など世界経済を中心として他書と異なるややアカデミックな実務書としてレヂメを決め巻頭の総論は赤松先生が署名入りで記述され各論をわれわれが20〜30頁分担して執筆し、赤松 要監修として高山書店より新世界経済四季報として昭和15年秋から昭和16年秋まで約1年間で第1集から第4集まで刊行した。小生は毎回地域毎或いは商品別などで20〜30頁担当し執筆したが3ケ月に1冊出版することは結構時間に追われ、分担するレヂメが決まると2ケ月間図書館行いをして原稿を仕上げ清書して提出すると、間もなくゲラ刷りが出来上り、お茶の水の共同印刷で徹夜で校正し出版に漕ぎつける訳で、学部3年目は仲々に多忙な1年間であった。

 尤も毎回約50〜70円位の原稿料をもらえるので1ケ月2食付の下宿代が20円前後のご時勢なので原稿料が入ると西荻窪で下宿の近い一森君、里見君などとよく呑みに行き、屋台のすし屋から格上げして、のれんをくぐるすし屋で痛飲放談したものであった。小生の拙速の卒業論文が合格したのも4回に渉る四季報への投稿が実績と評価されてパスしたのではないかと推測している。

 ゼミナリステンの諸兄とは分けへだてなくご交誼願ったが放課後のプライベイトライフでは間宮健一郎君・一森 明君・里見治男君の3君は特に忘れ難い友人であった。間宮君にはしばしば御徒町のご自宅にお招き頂き、下宿生活の無聊を慰めてもらい、一森君・里見君とは西荻窪の住人として夜のつき合いが多く青春のエネルギーを発散したものであった。三人共物故され真に残念で心からご冥福を祈る次第である。

(2001・5・24)。