浩 浩 居 7組 篠原康次郎

 

 昭和14年、私は長崎高商から東京商大の入学試験を受けるため上京することになった。でも、東京は全く始めてでさっぱり勝手がわからない。たまたまある先輩から、自分が入っている寮に空き部屋があるから、そこへ泊まって受験に行ったらとの有難いお誘いを受けた。願ってもないことなのでご好意に甘えることとし、中央沿線の西荻窪駅から歩いて5分程度ののところにあるその寮にうかがった。それが「浩浩居」という学生寮であったわけである。

 木造2階建てのこじんまりした建物で、寮生の個室が12室、それに食堂、応接室、そして小規模の柔道場が付設されている。私はその一室に泊めてもらって国立の学校に受験に行ったのであるが、幸いにして合格することができた。そこで先輩のおすすめもあって、そのままこの寮に居座り結局大学在学中3年間、まるまるここで起居こととなった。

 さて、この「浩浩居」という寮のことであるが、創始者は郷土福岡の大先輩であり、総理にもなった広田弘毅氏であり、浩浩とは、広大なという意味で中国の古典に基づくものという。

 広田さんは福岡から笈を負って上京し、一高から東大に学び、その後外交官の道を歩まれたのであるが、その学生時代、親しい同郷の仲間数名と一軒の小さな家を借り、共同自炊生活をやったのが嚆矢となっている。遠く、明治32年頃のことである。その後この共同生活は、志ある後輩に受け継がれ借家は二転三転したが、その伝統は絶えることなく、昭和11年には財団法人となり、寮の建物も諸先輩の寄付で自前のものができるに至った。

 定員は個室の数だけ12名、寮生の学校は問わず、当時半数が東大、それも法、経、農の各学部にわたり、その他は東京商大、慶応、早稲田、明治、東京外語、芸大など極めてバラエティに富んだ顔ぶれであった。寮則の第一に掲げられている「浩浩居同人は志操と意気とによりて相結び、兄弟の情を以って相交わることを誓う」とあるように、素朴で武骨な雰囲気の中でも本当に胸襟を開き、心の触れあえる共同生活をすることができた。寮は全く自治による運営で、毎年寮長と会計責任者を選出、寮費は寮母に対する給与と各自の食費負担のみ、他は財団に援助して貰えるので経済的にも楽であった。

 学校から帰り、夕食がすむと食堂でお互いに雑談、話しは政治、経済、社会、文化と広範に及び、また学校間の情報交換も行なわれる。時には自分の専門分野についての研究発表会をやることもあり、夫々の学風にも触れて裨益されるところ頗る大きかったように思う。また先輩もよく面倒をみてくれたし、折にふれ先輩の門を叩いては人生論などご高説をうかがったものである。

 年一度の記念祭には、当時重臣であった広田さん自ら出席され、板張りの食堂に応急に敷いた畳の上で、われわれ寮生と車座になり、すき焼きをつつきながら歓談されるという場面もあった。「自ら計らわず、自分のやったことに全責任をもち一切の弁解をせず」を身上とされた広田さんが戦後、文官としてただ一人、A級戦犯で処刑される事態になったのはまことに残念でならない。

 激動の時代を背景に、今日までよく生き延びてきたものと思うが、貴重な青春時代、東京商大に学ばせていただいた感謝の念とともに、この浩浩居での得難い体験は何時までも忘れることはできない。その浩浩居は、私が大学を卒業した昭和16年から60年たった現在でもなおそのまま連綿として存続している。

以上