米子鉄道管理局長時代の思い出 7組 壷井 宗一

 

 1)昭和38年5月、昭和天皇、香淳皇后をお迎えして鳥取県の大山で植樹祭が開かれた。鉄道規則により、陛下の方に振り返ることが許されなかったので駅のところどころに助役をたたせた。陛下の速度にあわせて、手を握ると歩調を早くし、手を開くと遅くすることにあらかじめ決めてあった。駅長が先導役で私が陛下の案内をつとめた。階段の昇り降りもあり一定の距離を保つことの難しさを今でも覚えている。

 山陰地方は温泉が多い。玉造、皆生、三朝、鳥取と日程は合計で一週間に及んだ。陛下は以前にも一度いらっしゃられたので香淳皇后を案内なさるお気持ちがあったのかもしれない。最後の鳥取駅の車中で拝謁を賜わり、私も一言だけお礼を申し上げようとした時、陛下が突然「この度はご苦労であった」とおっしゃられ、私は気が動転して「ハハーッ」と頭を下げただけだった。となりにいらした香淳皇后のにこにこされた笑顔のみを覚えている。

 一週間に及んだ行程を無事終え、私は紋章の入った普通より大きい賜盃をいただいた。今でも家宝として大切に持っている。

 2)昭和38年10月に山陰地方は大風水害におわれ、全線にわたって77ケ所の線路が不通になった。中でも数ケ所が宙吊りになった。その時新潟にも地震があったためニュースが大変遅れた。地元の細田吉蔵先生や竹下登先生にお願いして漸く工事が完成した。そしてその完成式が出雲市であった。私は、区長のほか、実際にスコップを持って工事にあたった線路工手を全員出席するよう指示した。私が線路工手に酒をついでまわると皆は感激して家宝にするといって盃を懐にしまいこんでしまった。私は局長として感激したことだった。これも米子時代のよき思い出の一つである。