齢八十をこえて 7組 鷲尾節夫

 

 正直云って、気がついたら80才をこえてゐた。このような回顧録を書くのも之が最後だらうと思い、筆を執った。

 1918年この世に生を受けてから、幼少時代はあまり斬新な記憶はない。昭和11年4月国立駅に立った時からわが人生の新しい時代がはじまった。田舎の中学生(津中学)が、一ツ橋というその当時有名校であった学校に進学出来たのも、正直云って奇蹟的だったと思った。何か大海原に乗り出した小舟乍らも、この海を制覇出来るという錯覚に陥ってゐたような記憶がある。尤も親が苦労して毎月学資を送金してくれたのにも感謝した。

 時代は日中戦争に入っていったが、6年間(専門部−学部)の学生生活には大した変化もなく、多少下宿代が値上りした程度で、ほんとうに楽しい学生時代であった。しかしその夢破れたのが、学部三年の夏休みも終って登校した時、ゼミの常盤先生より、「お前達は12月卒業になったからすぐに卒業論文の準備にかゝれ」と云はれ、いよいよ時代は急変しつゝあるのを感じた。しかし当時のわれわれにはアメリカの実力を知る由もなかったし、かくも無残な負け方をするとも夢想もしなかった。しかも徴兵検査が中野区役所で12月8日行はれその徴兵検査の途中で日米開戦の軍艦マーチをラジオできいた。私は近眼の為か、第2乙種と判定されたが、級友の大半は現役で翌昭和17年2月に入隊された。

 しかし、戦争は無残な結果に終り、戦後がはじまった。私が働いてゐた三菱商事も解体され、霧散したが、昭和29年再び合併して今の三菱商事が出来た。昭和31年紐育駐在員として、アメリカに渡った。その時初めてアメリカの経済力の大きさを知った。もっと早くアメリカという国をみんなが知らされてゐたら、あの戦争も変ってゐたかも知れぬ。私もアメリカ駐在七年間で、世界の広さも知った。欧州、アフリカ、オーストラリア等も歴訪、駐在の機会も得て、日本の世界に於ける地位も知り得た。

 今の国民は旅行も自由だし、渡航も便利になったので、外国との違和感は少なくなったと思うが、やはり文化の違い、環境のちがいを充分知らねばならぬ。ともかく20世紀は戦争の時代であったように思はれる。富国強兵が国是であり、国民もそれを信じて疑はなかった。こんな駆足で80年を通して来たような気がする。みなさんも歩いた道こそ異なれ、あはたゞしい道程を歩いてこられた事と思います。

 いよいよ21世紀に入り、われわれは聊か側線入りしたローカル線で、呆然と本線のスピードを眺めてゐるような気分ですが、平和というものが、何てすばらしいものか実感すると同時に、果して理論通りにゆくだらうか、むつかしい時代にも入った気もする。

 しかしもう子供達、孫達の時代です。みんなが終戦後の苦難時代を語りつがれて、今度こそ道をふみ違いをせぬよう願い度いものです。

 最後にお互に手をとり合って生きながらえて来た諸兄の益々のご健康を御祈りします。