7組 渡辺 公徳 |
昭和20年8月15日(1945)網走駐屯部隊は全部網走神社に集合し戦勝祈願を行い市中行進を行った。その途上で各部隊は直ちに夫々の部隊に帰還し正午から天皇のお言葉があるからそれを聞く様にとの指令があった。それが敗戦の詔勅であった。私は暁6151部隊の主計少尉であった。米軍に引継いで最終報告を小樽の船舶司令部に届けて部隊を解散し東京の家に帰り着いたのは11月のはじめになっていた。 昭和16年12月に大学を卒業して富士電機に就職し二週間ほど講習を受けただけで17年2月1日には入営した。それでも月給は留守宅に貰っていた。が帰っても工場など戦災で失せ会社に帰れる席はない。 どうするか。日本が敗戦から再興するには工場を再建し働かねばなるまい。それには金がいる。金を出せるのはアメリカだけだろう。いづれアメリカの銀行が日本に出てくるだろう。そこで働こう。そのため先ず英語を勉強し特に銀行を学ぶべし。と考えた。それで年があらたまったら直ちに米軍で働こうと決心した。 米軍に働くことになり幸に海上ビルにあった第五空軍司令部情報教育部にまわされた。そこで兵下士官用図書室を開設するので図書係に命ぜられた。アメリカ本部から送られてくる図書雑誌を整理して管理することである。大学レベルのテキスト及びレファレンスブックスで下士官・兵が各科目を修得して試験に通れば在籍中にカレッジのクレディットをとれるシステムである。 その外にフォーチュンビジネスマガジンもくる。一通り図書室をととのえたらあとは自分の好きな本を読めるのでこれは勉強になった。 ハンチントンのシビリゼーションという部厚い本をウェブスターの大辞典を傍においてよみ通すことが出来て大分力がついた。フォーチュンの近著号に“Bull in the West”という題でバンクオブアメリカの A.P. GIANNINI の記事があってアメリカ銀行が California で急成長している様子である。一年近く東京海上ビルに住込み食事付だったので随分勉強させてもらった。それから代々木上原に小さいアパートを借りることが出来て家族と一緒に住める様になった所その近くに養成所の先輩で一橋大学商学部教授の深見先生がおられ、最近目についたアメリカ経営学雑誌の内容などをお話することがあった。そのうち先生がツダスクールオブジビネスでも講義しておられてそこへ私も一つ話をしないかということで引受けて結局1年足らず話をした。 そのうちにスターズアンドストライブスなどにアメリカの銀行が三行東京に店をもつという記事が出た。昭和22年(1947)の冬であった。そこですぐに Bank of Anerica と Chase の二行に手紙を書いて私を採用する様に頼んだ。Bank of America は既に八重洲ビル一階に開業していたので manager に会いに行った。支店長は Initial staff は千代田銀行から出してもらっているので必要ないということだった。深見先生が態々 manager に会って渡辺を採用する様すゝめてくれた。これで翌年2月1日からはじめることにしてくれた。私は司書の後任を決めてアメリカ銀行に入ることが出来た。 1948年私が入った頃は行員も全部で10人位。ミリタリ バンキング ファシリティで日本人は取引出来なかったが 数年後 大蔵大臣の銀行許可書もおり日本の銀行も取引できる様になった。 昭和23年(1948年)無位無官の new employe として採用されたが31年勤務して満60才定年でリタイアするときは senior vice presidemt-global coordinator of Japanese Corporate, Government & Bank Relations, World Banking-Asia Division であった。 小さな unit として出発した東京支店であったが日本経済の急速な成長と日本の銀行の成長と共にアメリカ銀行の Japan business は急速に発展し一番成績のよい海外支店になっていた。 |